【グラバー家ヒストリーEP3】長崎外国人居留地って何?
2019年8月6日
グラバー:前回は私が長崎に来たきっかけをご紹介した。マッケンジーの下で貿易をするために来たことをどれだけの人が知っておったのかの~。さて、長崎に来た私は外国人居留地で仕事をして家を建てた。みんな「居留地」を知っているかな?ツル:時々「イリュウチ」って呼ぶ方がいるけど、正しい読み方は「キョリュウチ」ですよ♪
富三郎:私は当たり前のように知っていましたが、意外と知られていないのか・・・?
グラバー:では今回のテーマはこれにしよう!

江戸時代の長崎において、出島に創設されたオランダ商館と現在の中華街の近くにある唐人屋敷だけが外国人が滞在できる場所でした。しかし1859年(安政6年)、安政の五か国条約によってオランダ、中国に加えて、イギリス・アメリカ・ロシア・フランスに対して神奈川、函館、長崎の各港が正式に開かれました。また条約の中では3つの港で対象となる外国人に対して居住・営業などの自由を許可した地域の土地割り当てを行いました。これを居留地と言います。
グラバー:グラバー園内にこんなものがあるのを知っているかな?

グラバー:これは居留地とそうではない地区の堺に建てられていたのだ。どうやらグラバー園が開園するときに、周辺にあった石柱をここに集めたようである。
長崎は居留地の場所として大村藩領の大浦外町村が選ばれました。そして1860年(万延元)に工事が開始され、翌年第一次工事が終了し、大浦・東山手・南山手などのエリアごとに区画割りが行われました。その後も道路や橋、石垣などの整備をして1870年(明治3)に造成工事は完了しました。第一工事が終了するまでの間、既に長崎に来ている外国人たちは日本人に提供してもらった建物や寺で仮住まいをしていました。
富三郎:居留地には各国の領事館がありましたが、その中の1つである英国領事館は、開港当初はグラバー園の近くに今でもある「妙行寺」を領事館にしていました。
ツル:日本のお寺が英国領事館に!?今では考えられないわ!そういえば、今でも旧居留地のエリアを歩いているとこんなものを見かけますけど・・・


富三郎:これは居留地のエリア内を区画した際に隣の区画との境にあったものです。
現在の「長崎みなとメディカルセンター」あたりは1から11番までに区画されました。ここは居留地の中でも一等地であり、貿易業者や領事館などがこの土地を借りる特権が与えられました。ほかにも居留地内には、ホテルや酒場、食料品店が立ち並び、東山手には学校や領事館、南山手には外国人の住宅が集まりました。
グラバー:私の会社「グラバー商会」は大浦2番に、家は南山手3番にあった。古地図を見ると当時の区画がちゃんと描かれておるの。地図にある黄色のエリアの赤い丸のところがグラバー商会があった場所。ピンクのエリアの赤い丸は旧グラバー住宅がある場所である。

ツル:古写真を見ると上の写真は日本家屋ばかりなのに、7年後には煙突が付いた洋風建築の建物に替わっているわ。海も埋め立てられている!

富三郎:その後、条約の改正により1899年(明治32)に居留地は閉鎖。外国人たちは長崎市で雑居し始めました。一方で旧居留地に住み続けた外国人も多く、旧リンガー住宅に住んだリンガー家や、旧ウォーカー住宅のウォーカー家、そしてグラバー家がその代表と言えます。
ツル:外国人居留地が大浦エリア周辺になかったら、今の長崎の景色は全然違っていたでしょうね!
グラバー:建物を見るだけでも、居留地時代の面影を感じることができるかもしれないが、よーく地面を見てみると当時の地番境石が残っておる。グラバー園にお越しの際はちょっと足を延ばして周辺の散策をしてみるのもおすすめである!
グラバー園周辺をはじめ、長崎市内の観光マップはコチラをご参考ください(^o^)
<参考文献>
ブライアン・バークガフニ『グラバー家の人々』2011長崎文献社
ブライアン・バークガフニ『長崎游学5 グラバー園への招待』2010長崎文献社
【旧グラバー住宅 耐震化を含む保存修理工事について】
現在、旧グラバー住宅は耐震化を含む保存修理工事のため、見学及び順路に変更がございます。約50年ぶりとなる、今しか見ることができない世界遺産の保存修理工事の様子を間近でご覧ください!



グラバーに関する展示については、「グラバー特設展」と題して、「旧リンガー住宅」及び「旧スチイル記念学校」で開催中です。ぜひこの機会ご覧くださいませ。

グラバー特設展についてはコチラをご覧ください。