【グラバー家ヒストリー EP4】マッケンジーってどんな人??
2019年8月13日
富三郎:みなさん、こんにちは。富三郎です。前回は私たちが住んだ居留地についてお話しました。グラバー:うむ。私は長崎に造られた居留地でマッケンジーと共に仕事を始めたのだ!
ツル:そういえば、マッケンジーさんってどんな方なの?
富三郎:私もマッケンジーさんとどんな仕事をしていたのか知りたいです!
グラバー:では今回のテーマはこれにしよう。

スコットランドから長崎にやってきた若きグラバーは、同じくスコットランド出身の商人ケネス・ロス・マッケンジーの助手として仕事を始めました。外国人商人の草分けであったマッケンジーは「ジャーディン・マセソン商会」の代理人としてインドや中国の港で人生の大半を過ごしました。
富三郎:ジャーディン・マセソン商会は今も続く歴史ある貿易会社ですよね。
グラバー:うむ。私と同じスコットランド出身で、イギリス東インド会社元船医の貿易商人ウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンが1832年に中国で設立したのだ。当初はお茶などをイギリスへ輸出していた。
ツル:ところでグラバーさんはずっとマッケンジーさんの下で仕事をしたのですか?
マッケンジーの下で貿易の仕事の手伝いをしていたグラバーでしたが、マッケンジーは開港していた中国漢口での業務のため1861年(文久元年)5月、長崎を去り、漢口へ向かいました。一方で長崎に残ったグラバーは、大浦海岸通りのマッケンジーの事務所跡へ移り「ジャーディン・マセソン商会」の代表権を引き継ぎました。またマッケンジーとともに漢口に向かったE・H・エバンズの仕事も行うこととなり、中国に拠点を置く大手貿易商会「デント商会」の代理人も担うことになったのです。
ツル:20代前半で大手2社の代理人になったのね!
富三郎:居留地ができて間もない時に重要な役割を任せられるってすごい!
グラバー:仕事だけではないぞ!1861年(文久元年)には居留地の中に商業会議所を創設した。この時、旧オルト住宅の主人ウィリアム・ジョン・オルトと共に私は運営責任者に任命されたのだ。
富三郎:さすが父さん!居留地の父です!
グラバー:若いころから頑張っていたのだよ♪

さて、漢口に去ったマッケンジーでしたが、6年後の1867年(慶応3年)に日本に戻り、グラバーの片腕として大阪で仕事を行います。そして1873年(明治6年)、不治の病を患ったマッケンジーは長崎へ戻り、グラバー邸で残りわずかの人生を過ごし72歳で他界しました。マッケンジーが死去した際、当時の英字新聞『ザ・ナガサキ・エクスプレス』(1873年11月8日発行)には、死去したマッケンジーの功績と共に、「旧来の親友」という表現でグラバーと過ごした晩年の様子も紹介しました。
親子ほど離れた2人でしたが、グラバーにとってマッケンジーは仕事の師匠のような存在である一方で、マッケンジーにとっては異国で共に働いた戦友だったかもしれません。
現在マッケンジーは大浦国際墓地で静かに眠っています。ぜひグラバー園と合わせてこちらもご覧ください。
大浦国際墓地についてはコチラをご覧ください。
<参考文献>
ブライアン・バークガフニ『グラバー家の人々』2011長崎文献社
【旧グラバー住宅 耐震化を含む保存修理工事について】
現在、旧グラバー住宅は耐震化を含む保存修理工事のため、見学及び順路に変更がございます。約50年ぶりとなる、今しか見ることができない世界遺産の保存修理工事の様子を間近でご覧ください!



グラバーに関する展示については、「グラバー特設展」と題して、「旧リンガー住宅」及び「旧スチイル記念学校」で開催中です。ぜひこの機会ご覧くださいませ。

グラバー特設展についてはコチラをご覧ください。