
南山手秘話
INTRODUCTION
グラバー園名誉園長
ブライアン・バークガフニ
1859年長く続いた鎖国時代に終わりを告げました。
安政の開国に合わせて続々とやってくる外国人の為に、南山手、東山手地区は「外国人居留地」として造成されました。
東山手は主に学校や領事館などが建てられ、南山手は洋風住宅や教会などが佇む優雅な多国籍居住地へと発展しました。
この南山手秘話ではグラバーやグラバー園に限らず南山手の様々な人物やエピソードを紹介していきます。
- EPISODE 1
- EPISODE 2
- EPISODE 3
- EPISODE 4
- EPISODE 5
- EPISODE 6
- EPISODE 7
- EPISODE 8
- EPISODE 9
- EPISODE 10
- EPISODE 11
- EPISODE 12
- EPISODE 13
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- EPISODE 15
- EPISODE 16
- EPISODE 17
- EPISODE 18
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- EPISODE 20
- EPISODE 21
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- EPISODE 32
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- EPISODE 71
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- EPISODE 79
- EPISODE 80
- EPISODE 81
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- EPISODE 87
- EPISODE 88
- EPISODE 89
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- EPISODE 91
- EPISODE 92
- EPISODE 93
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- EPISODE 96
- EPISODE 97
- EPISODE 98
- EPISODE 99
- EPISODE 100

南山手秘話
EPISODE 1
一本松の邸宅
スコットランド人事業家、トーマス・グラバー(1838~1911)の旧邸は日本における最古の洋風建築として建築当初からそのままの場所に建っている。
ちょうど150年前の文久3年(1863)、天草の棟梁の小山秀之進によって建設され、まるで貿易と国際交流をつかさどる新時代のお城のように鍋冠山の中腹から長崎港を見下ろした。建築当初はL字型の平面であったこの木造住宅は、端部が独特な半円形を描く寄棟式屋根、石畳の床面に木製の独立円柱、菱型に組まれた格子の天井をもつ広いベランダを誇る。屋根は日本瓦で覆われ、壁は日本の伝統的な土壁であった。一方、中は典型的な西洋風の造りになっていて、前方にはリビングルームとダイニングルーム、奥には英国式暖炉のある寝室と厨房や倉庫などがあった。旧グラバー住宅のすぐそばで大きな松の木がそびえ立っていた。この松の木にちなんでグラバーは自宅のことを「IPPONMATSU(一本松)」と呼び、家の北側部分に松の樹幹を取り囲む小さな温室を造った。威厳のある古木は後に病気にかかり枯れ、明治38年(1905)に切り倒されてしまった。
波瀾万丈の歴史を歩んできた旧グラバー住宅。現在は、グラバー園の目玉として独特な雰囲気を漂わせ続けている。彫刻を施したマントルピース、手描きの有田焼タイル張りの暖炉、また分厚い床板等が人語を解し、すべてを語り始めたとしたら、どのような歓喜と悲哀の物語が聞けるのだろうか――。
2013年4月

南山手秘話
EPISODE 2
グラバー園に移築されたフリーメイソン・ロッジの門柱
グラバー園に移築されたフリーメイソン・ロッジの門柱フリーメイソンは、中世のイギリスで始められた友愛団体だが、長崎におけるロッジ(集会所)は、明治18年(1885)に発足した。三菱長崎造船所に勤めるイギリス人たちが会員の大半を占め、初代グランドマスター(ロッジ長)に選ばれたのは、三菱が長崎造船所の初代マネージャーであったスコットランド人のジョン・コルダー(John Calder)であった。コルダーの住宅は、現在は愛知県の明治村に移築保存されてる南山手25番館であった。明治22年(1889)、会員たちが大浦47番地の建物の2階にロッジを移してフリーメイソンのマークを刻んだ門柱を入口に設置した。ロッジは大正8年(1919)に活動を中止し、大浦47番地の洋風建築も戦後に取り壊された。表の門柱だけが保存され、旧グラバー住宅と旧リンガー住宅の間にあるテニスコート跡に移された。昭和46年(1971)にグラバー園の整備が始まると、この門柱は旧リンガー住宅の真横に移され、現在に至る。
門柱にはフリーメイソンの理想である平等と正義の象徴である定規とコンパスがはっきりと見て取れる。 トーマス・グラバーもフレデリック・リンガーもフリーメイソンに加入した痕跡はないが、長崎の国際墓地には今も数人の会員が眠っており、彼らの墓標には門柱と同じシンボルマークが刻み込まれている。
2013年5月

南山手秘話
EPISODE 3
グラバー園とヒッチコック監督~知られざる接点
グラバー園に現地保存されている3棟の重要文化財の一つに「旧オルト住宅」がある。元の主は幕末の茶貿易などで活躍したイギリス人商人ウィリアム・オルト(William Alt)である。
昭和60年(1985)、オルト家の血をひく人物が久しぶりに長崎を訪れた。ひ孫にあたるモンゴメリー子爵夫人(旧姓テッサ・ブラウニング)である。先祖の住宅を見たいという思いにかられて一路長崎を目ざしたようだが、長崎訪問の際、同夫人の母親は有名な小説家ダフネ・デュ・モーリア(Daphne du Maurier)であることが初めて長崎で知られることとなった。ダフネ・デュ・モーリアは、明治40年(1907)ロンドンで生まれ、まだ24歳だった昭和6年(1931)に出版した処女作「愛はすべての上に」(The Loving Spirit)がいきなりベストセラーとなった。その後ウィリアム・オルトの孫に当たる軍人のフレデリック・ブラウニング(Frederick Browning)と結婚した彼女は、次々とベストセラー小説を発表して話題を呼んだ。映画化された小説の中で最も有名なのは、「レベッカ」(Rebecca)であろう。「風と共に去りぬ」で名声を得たデイビッド・O・セルズニックがプロデュースして昭和15年(1940)に映画化された「レベッカ」は、映画監督アルフレッド・ヒッチコックのアメリカデビュー作となった。同年のアカデミー賞の作品賞に輝いたこの映画は、今尚、モノクロ映画の名作として絶賛されている。ヒッチコック監督の名作ホラー「鳥」(TheBirds)の原作者もダフネ・デュ・モーリアである。
2013年6月

南山手秘話
EPISODE 4
キリン、狛犬とグリフィン
旧グラバー住宅の温室の中を通ると一対の狛犬が目を引く。その説明板には、「この狛犬は今日のキリンビール社のラベルのもとになった」と書いてある。トーマス・グラバーとその仲間は明治18年(1885)、キリンビールの前身会社であるジャパン・ブルワリ・カンパニーを横浜で創設したのは確かだが、ビールのシンボルに麒麟を選んだ経緯は実は不明である。現在のラベルのデザインは明治22年(1889)に登場し、麒麟はライオンのような黄色のたてがみと、わき腹に沿って、銀色に光るしま模様が施されていた。麟麟の顔のまわりを一周して、たてがみの中へと消えて行く大きな黄色の口ひげも加えられたが、これは太い口ひげをトレードマークにしていたトーマス・グラバーの貢献に敬意を表してのことだと伝えられている。
しかし、それが事実であったとしても、麒麟がそもそもなぜ採用されたかはわからない。グラバーが自宅の狛犬でなく、ロンドン郊外のチズウィックで1845年からビールを醸造していたフーラー社のロゴからヒントを得たという可能性がむしろ高いと思われる。この会社はシンボルマークに麒麟と同じような伝説の奇獣であり、ライオンの胴体に鷲の頭と羽を持つ「グリフィン」を使っており、今でもイギリスで人気のある「ロンドンプライド」などのビールを作り続けている。
2013年7月

南山手秘話
EPISODE 5
南山手の「バブーシュカ」
旧グラバー住宅のダイニングルームには大きな木製のディナーテーブルがある。これは、南山手に住んでいたクリスティーナ・シェルビニナ(ChristinaScherbinina)女史の死後、グラバー園に寄贈されたものである。
クリスティーナの父は、明治2年(1869)頃に来崎したアフリカ系英国人、リチャード・フォード(RichardFord)で、母は日本人女性の沢チワ。フォードは荷揚業や仲買業を営み、雨のドンドン坂沿いの南山手22番地に洋風住宅を建てた。フォードは明治36年(1903)に他界し、坂本国際墓地に埋葬された。妻チワは昭和10年(1935)に亡くなり、夫のとなりに葬られた。一人娘のクリスティーナは幼児期からウラジオストクの学校で学んだ。卒業後もその地に残り、ロシア人船長のシェルビニンと結婚して一男一女の母となった。クリスティーナは長い間ウラジオストクに住んでいたが、夫の死を機に長崎へもどり実家の南山手22番館に居を構えた。ロシア正教の信者だったクリスティーナは、長崎を訪れるロシア人たちを家で接待し、彼等から「南山手のバブーシュカ」として慕われた。昭和41年(1966)に亡くなったときは、多くのロシア人や日本人が葬儀に参列したという。現在は坂本国際墓地で両親と並んで永眠している。
旧グラバー住宅のディナーテーブルを見ると、ロシアの家庭料理を楽しむ在りし日のロシア人たちが目に浮かぶ。※バブーシュカ:女性が頭を覆うスカーフの事。転じてロシアでは老夫人や祖母の事を親しみを込めてバブーシュカと呼ぶ。
2013年8月

南山手秘話
EPISODE 6
長崎最初の高級ホテル「ベル・ビュー・ホテル」
慶応元年(1865)発行の外国人名簿「ジャパン・ディレクトリ」によると、長崎居留地には3軒のホテルが存在していたことが示されている。それは、大浦25番地の「コマーシャル・ハウス」、同26番地の「オリエンタル・ホテル」、南山手11番地の「ベル・ビュー・ホテル」である。いずれも日本最初期の西洋式ホテルだが、前者2軒は居酒屋を備えており、「ベル・ビュー・ホテル」のみが婦人や子供を迎える高級ホテルであった。元イギリス領事館巡査の妻、メアリー・グリーン(Mary Green)夫人により経営されていたこのホテルは、中庭をもつ四角形の木造2階建て建築で、外国人来訪者が上陸する長崎税関の第6番波止場の上に建っていた。イギリス人旅行者N・B・デニーズ(N.B.Dennys)は同3年(1867)の記述の中で次のようにベル・ビュー・ホテルについて言及している。
「もてなしのよく行きとどいたこのホテルは、来訪者に親しまれていた。夕食は1ドルで済ますことができ、一週間滞在すればすべてを含めて21ドルである。湾と街の美しい景色を見渡すことができる」。
ベル・ビュー・ホテルは長崎を代表する西洋式ホテルとして営業を続けたが、日露戦争後、長崎の国際貿易港としての繁栄は衰退し、旧外国人居留地のホテルは次々と姿を消していった。大正9年(1920)、長崎最古の高級ホテルであったベル・ビュー・ホテルもついに廃業した。グラバー園へと続く坂道の左手のベル・ビュー・ホテル跡地には、現在、ANAクラウンプラザホテル長崎グラバーヒルが建っている。
2013年9月
南山手秘話
EPISODE 7
ロシア語新聞「ヴォーリヤ」
日露戦争中に閉館されていた南山手5番地のロシア領事館が、戦後復活し、長崎を訪れるロシア人も再び急増した。「東洋日の出新聞」によると、明治39年(1906)1月から9月の間、月平均328人のロシア人が長崎税関の波止場を通過した。その多くは避暑地の雲仙へ行く裕福なロシア人たちだが、南山手に居を構える人も少なくなかった。同年、ロシア正教会の日本人神父アントニイ高井が長崎に派遣され、この街における活動を再開した。教会堂は南山手の旧ロシア海軍病院の敷地内に開設されていたが、大正6年(1917)に首司祭アントニイ高井神父名義になり、長崎正教会の聖堂が建立され、太平洋戦争前夜まで存続した。
日露戦争後に長崎に住み着いたロシア人の一人に、医師で政治活動家のニコライ・ラッセル(Nicholas Russel)がいる。「在長崎露国革命党首領」として同僚に慕われていた彼は、明治39年(1906)4月から日本抑留のロシア人捕虜やそのほかのロシア人に革命を宣伝するために「ヴォーリャ」(Воля)と題するロシア語新聞を南山手12番地で発行した。同新聞は翌年春まで発行を続け、その後に起きたロシア革命の一翼を担った。ラッセルは同43年(1910)に長崎を離れてフィリピンに活動の場を移したが、その後も度々長崎を訪れて親交を深めた。その後、彼は、日本人女性大原ナツノとの間に生まれた長女フローラと共に中国の天津に移住し、昭和5年(1930)、波乱万丈の生涯を閉じた。
2013年10月
南山手秘話
EPISODE 8
南山手とミッション・スクール
長崎居留地に開設された最初のカトリック系ミッション・スクールは聖心女学校と海星学校である。フランスに本部を置くショファイユの幼きイエズス修道会の修道女たちは明治13年(1880)に来崎し、翌年、大浦5番地に修道院とセンタンファンス(聖なる子どもたち)と名付けられた子どもたちの家を開設した。
明治24年(1891)、宗教や国籍を問わず日本人と外国人がともに寄宿した「聖心女学校」を同地に開設し、これは「フランス学校」とも呼ばれ、明治期の長崎では唯一のカトリック系女学校であった。聖心女学校は、同31年(1898)、南山手町16番地に建てられたロマネスク様式赤煉瓦造りの新しい建物に移転した。現在はマリア園の所在地となった旧校舎は、明治期の香りただよう長崎の名所となっている。
一方、長崎居留地初のカトリック系男子校は、明治25年(1892)1月、マリア会のフランス人修道士たちが南山手31番地に創設した海星学校である。校舎は、ロバート・N・ウォーカー船長やその他の外国人住民がかつて居を構えていた煉瓦造りの豪邸だった。その後、同校は長崎港を見下ろす東山手1番地の高台(現在地)に移転した。明治31年(1898)に完成した荘重なロマネスク様式の校舎は、長崎居留地に新たな歴史と文化を加えた。一方、南山手31番地の建物は長崎に支局を持つ大北電信会社が買い取り、太平洋戦争の勃発までデンマーク従業員の住宅として利用されていたが、戦後に取り壊された。
2013年11月
南山手秘話
EPISODE 9
福田サトの運命
日本郵船会社(NYK)の船長として活躍していたロバート・N・ウォーカーは、明治19年(1886)に神戸~ウラジオストク間の航路に就任するために、日本人妻福田サトと4人の子供を連れて神戸から南山手31番地の邸宅に移住した。長崎でも3人の子供が生まれ、9人の大家族となった。しかし、明治24年(1891)、ウォーカー船長が指揮する高千穂丸は対馬南部の海岸に座礁してしまった。彼は事故の責任をとり辞職し、家族を長崎から引き上げて英国の故郷メリーポートへ帰った。あまりにも大きすぎたストレスのせいか、サトは36歳の若さで急病に倒れ、帰らぬ人となった。ウォーカー船長は愛妻の死を惜しみながらも当時9人にまで増えていた子供たちを連れて日本へ戻り、長崎居留地に荷揚げ業の「R.N.ウォーカー商会」を立ち上げた。彼は明治41年(1908)にカナダへ移住したが、90歳で他界するまで再婚することはなかった。長崎に残った次男ロバート・ウォーカー二世は、R.N.ウォーカー商会を継承して地域経済の発展に寄与していった。彼が大正4年(1915)に購入した南山手乙28番地の洋風住宅は、昭和49年(1974)年7月、遺族によってグラバー園に寄贈された。
現在、南山手に住んでいた福田サトのことを覚えている人はほとんどいないが、旧ウォーカー住宅は海の見えるグラバー園の高台に大切に保存されており、波乱万丈の歴史を今もささやき続けている。
2013年12月
南山手秘話
EPISODE 10
旧ウォーカー住宅の知られざる過去
南山手東側の狭い地域には、大浦天主堂、大浦諏訪神社、妙行寺という3つの建物が隣接して建てられており、この地域における国際交流の歴史と折衷文化を物語っている。「祈念坂」と呼ばれる大浦天主堂横の石畳の小道を登っていくと、古風なレンガ壁と正門が見える。これは現在グラバー園に移築保存されている「旧ウォーカー住宅」の元の所在地である。居留地時代の住所は南山手乙28番地であった。
ロバート・ウォーカー2世が大正4年(1915)に土地と建物を購入して主となったは、最初に住んでいたのはベル・ビュー・ホテル(南山手11番地、現在のANAクラウンプラザホテル長崎グラバーヒルの場所)のイタリア人経営者C・N・マンチーニだった。明治4年(1871)6月10日付けの英字新聞『ナガサキ・エクスプレス』に、「南山手乙28番地のバンガロー式邸宅」の売却広告が載っていることから、グラバー園に移築保存されている建物は明治初期にすでに建っていたと判断できる。 買い手は不明だが、その後の記録によると、デンマーク生まれのアメリカ人船乗りM・C・カールセンが明治21年(1888)からここに住んでおり、上杉ソモという日本人女性と結婚していた。しかし、ソモはなんらかの理由でカールセンと別れ、この船乗りは不運にも結核を患い同28年(1895)10月に他界した。遺体は坂本国際墓地に一旦埋葬されたが、親族の依頼で掘り起こされアメリカに帰されることになった。
2014年1月
南山手秘話
EPISODE 11
国宝・大浦天主堂について
フランス人医師レオン・ドュリーは、文久2年(1862)に駐在長崎フランス領事に任命された。ドュリーの要請により、パリ外国宣教会は翌年、教会と伝道本部を設立するためにフランス人司祭テオドル・フューレを長崎に派遣した。喜んだドュリーは、教会建設予定地として南山手甲1番地の借地権を確保した。
文久3年(1863)ベルナード・プティジャン神父らも長崎に到着した。その前年、東山手で日本最初のプロテスタント教会である英国教会堂の建設に携わっていた天草出身の小山秀之進が新しい教会の施工を引き受けた。翌年末に完成した教会は、英国教会堂と同様に殉教地である長崎市西坂に向けて建てられ、「日本二十六聖殉教堂」と正式に命名され、日本では教会建物に地名を付けて呼ぶ習慣があるため、通称「大浦天主堂」と呼ばれた。献堂式が挙行された元治2年(1865)2月19日から1ヵ月もたたない内、日本人農民の一団が教会を訪れ、彼らが長崎の郊外に住む潜伏キリシタンであることをプティジャン神父に打ちあけた。それは世界を震撼させた「信徒発見」の瞬間であった。
明治8年(1875)、パリ外国宣教会は日本人司祭育成を目的として長崎公教神学校の校舎兼宿舎を天主堂の敷地内に建設した。同神学校を設計したのは、その後、貧困に苦しむ人達のために社会福祉活動に尽力し、現在も「ド・ロさま」と呼ばれ親しまれるマーク・マリー・ド・ロ神父であった。大浦天主堂は、昭和28年(1953)に国宝に指定されたが、南山手を訪れる観光客の増加にともない、同50年(1975)、カトリック大浦教会が近くに新築され、大浦天主堂は有料観光施設として一般に開放された。
2014年2月
南山手秘話
EPISODE 12
ロバート・ウォーカー二世(1882-1958)について
ロバート・ウォーカー二世は、英国人船長ロバート・N・ウォーカーと日本人妻福田サトの次男として、明治15年(1882)に神戸で生まれた。ベルファスト(北アイルランド)の学校を卒業した後に長崎へ戻り、父の会社「R・N・ウォーカー商会」に就職した。
明治37年(1904)、ウォーカーは製造機一式を居留地のオークションで落札し、下り松甲44番地の自社倉庫で「バンザイ炭酸飲料会社」を立ち上げた。以降13年間、この会社は「バンザイ」ブランドのジンジャエール、ソーダ水や他の炭酸飲料を製造し、地元のホテルや店に販売した。明治41年(1908)、ロバート・N・ウォーカーは4人の娘たちを連れてカナダに移住し、R・N・ウォーカー商会の権限を次男ロバート二世に譲った。大正4年(1915)、ロバート・ウォーカー二世は、現在グラバー園に移築保存されている南山手乙28番地の洋風住宅を購入した。彼は無国籍という特異な状況にいたが、昭和3年(1928)に日本国籍をとり、正式な名前をRobert Walkerから、姓名をカタカナ表記、「ウォーカーロバート」と変えた。ウォーカーは昭和12年(1937)、長崎出身で同じく英国人男性と日本人女性の間に生まれたメイブル・シゲコ・マックミランと結婚し、その後二人の息子の父となった。太平洋戦争の間、ウォーカー家は日本国籍を保持しているにもかかわらず、警察の厳しい監視下に置かれたが、終戦後も、南山手の乙28番地に住み続け、日本国籍と英語名を持つ家族として異彩を放った。
2014年3月
南山手秘話
EPISODE 13
日本初の電報局
明治元年(1868)、ロシア政府がロシアから中国、日本、香港を結ぶ電信ケーブルを敷設する入札を要求したところ、デンマークに本社をおく大北電信会社がその権利を獲得し、ウラジオストックから長崎、上海、香港まで、2300海里(約4260キロメートル)の距離を海底電信ケーブルで結び、南山手11番地にあったベル・ビュー・ホテルの一室に電報局を構えた。そして明治4年(1871)年8月12日に日本初の海外電報サービスが始められたのである。当時、長崎から上海の電報代は、20文字で3ドル(洋銀)と高額なものであった。長崎から上海まで敷設された海底ケーブルは、すでにイギリス系の電信会社がつくっていたヨーロッパ・アジア回線やヨーロッパ・アメリカ回線と接続し、世界を周回する雄大な回線ができた。これにより、日本は世界の電信網につながった。明治7年(1874)、同会社はベル・ビュー・ホテルから長崎郵便局の隣、梅香崎2番の大きな2階建て洋館に長崎支局を移転した。建物の外にはデンマークの国旗が掲げられ、日本の国際通信を外国の会社が統御していることを象徴した。大北電信会社の歴代支局長とその他の従業員たちが、日本の電信技術の促進において重要な役割を果たすこととなった。明治32年(1899)の条約改正により居留地制度が廃止された後、日本政府は海底ケーブルの管理権の譲渡を求めたが、大北電信会社が太平洋戦争直前まで日本の国際通信の大動脈を握り続けたのである。
2014年4月
南山手秘話
EPISODE 14
長崎のデ・スーザ家
ポルトガル人シモン・デ・スーザは出身地のマカオから明治初年に来崎し、英字新聞の編集者などを経て、長崎米国領事館で通訳兼事務官のポストに就いた。日本人女性と結婚して十数人の子供たちの父となった彼は、長崎居留地の中で日本人と外国人の「架け橋」として活躍し、明治37年(1904)に他界して坂本国際墓地で眠る。
シモン・デ・スーザの息子アルミロは、明治13年(1880)に長崎で産声を上げた。南山手26番地の邸宅で少年時代を過ごし、カトリック系男子校「海星学校」を同31年(1898)に卒業した。その後、兄と共に小売および問屋業の「デ・スーザ商会」を旗揚げしたが、この事業は順風満帆とは行かず、S・D・レスナー商会に一時転職した。しかし、明治37年(1904)、香港上海銀行が下り松海岸(現在の松が枝町)に長崎支店の社屋を新築した際に、彼は同銀行の行員という安定した職を得た。 アルミロ・デ・スーザは日本人とフランス人の間で生まれた女性と結婚し、南山手8番地に新居を構えた。一家は幸せな生活を送っていたが、彼は大正10年(1921)に肺炎を患い、同年11月、妻と8人の子供たちが見守る中で息を引き取った。享年41歳。
南山手8番地の自宅は戦後に取り壊され、その跡地には現在、グラバー園入口前に商店が軒を並べている。一方、デ・スーザ夫人がイタリアから取り寄せ、坂本国際墓地の亡き夫の墓前に設置した天使像2体は、現在も祈りを捧げ続けている。
2014年5月
南山手秘話
EPISODE 15
「リンゲル液」と長崎
年配の方々は、「リンゲル」といえば、点滴のことを意味していた時代を覚えておられるだろう。しかし、輸液に使用される「リンゲル液」を発明したイギリスの医師シドニー・リンガー博士が、長崎に深い関わりがあったことを知る人はあまりいないかも知れない。
グラバー園に現地保存されている旧リンガー住宅の元主は、イギリス・ノーリッジ市で生まれ、日本の殖産興業と長崎の経済発展に多大な貢献をしたフレデリック・リンガーである。リンガーの2人の兄もそれぞれ世に名を残した。長男のジョンは当初の上海外国人住民として同市の水道建設やその他の事業に貢献した。
一方、次男のシドニーは、ロンドン・カレッジ大学医学部教授として、人間の鼓動とイオンの関係性に関する先行的な研究で名声を博し、1885年(明治18年)に王立協会のフェローとなった。リンガー医師による『リンガーの治療学ハンドブック』は、薬理学者定番の教科書であり、また、彼の名前にちなんだ「リンガー液」(日本ではドイツ語風に「リンゲル液」と呼ばれた)という点滴用の生理食塩水は、現在でも世界中の医療機関で使われている。シドニー・リンガー医師は退官後にロンドンの自宅とノースヨークシャー州ラスティンガムにある妻の実家で余生を送り、弟フレデリックが活躍した日本には来ることはなかった。
2014年6月
南山手秘話
EPISODE 16
愛犬の墓
居留地時代の古写真から、長崎に来航した外国人たちがペットとして犬を連れてきていたことが確認できる。それは、ラブラドールレトリーバー、スコティッシュテリアやアイリッシュセッターなど、当時の日本人には珍しい外来種も含まれていた。その結果、様々な「洋犬」が長崎やその他の開港場経由で日本全国に広がったと考えられる。
慶応元年(1865)、居留地在住の外国人たちが休養を楽しむために長崎港外のねずみ島へ出かけた際に撮った有名な集合写真がある。それをよく見ると、イギリス商人ウィリアム・オルトの膝の上にヨークシャーテリアが写っている。リンガー家は明治36年(1903)から南山手14番地の旧オルト住宅に居を構えたが、家族の写真アルバムにも愛犬がたびたび登場している。現在の旧オルト住宅(グラバー園内)の前庭の端っこに小さな墓碑が木陰に隠れるように立っている(写真)。碑文には、「ミキ」と「リンジャ」の名前と「昭和3年4月12日」の日付だけが刻まれている。それ以外の記録はまったく見当たらないが、同地に住んでいたフレデリック・リンガーの長男一家が亡き愛犬を偲んで設置したものであろう。しかし、ひとつ腑に落ちない点がある。リンガー氏に墓碑の設置を任せられた日本人従業員による聞き違いという可能性もあるが、「リンジャ」は「レインジャー」(Ranger)の間違いではないかと思われるし、碑文のカタカナ表記と日本年号は謎のままである。
2014年7月
南山手秘話
EPISODE 17
マダム・バタフライ・ハウス
由緒ある旧グラバー住宅の外国人の最後の住人は、戦後直後にアメリカ占領軍の一員として上陸していたジョセフ・ゴールズビー大尉であった。独特な洋風建築と長崎港を一望できることに魅了されたゴールズビーやその後に来崎したバーバラ夫人は、自分がマダム・バタフライのヒロイン、蝶々さんの家に住んでいるのだと想像し、旧グラバー住宅に「マダム・バタフライ・ハウス」という愛称を付けた。
昭和25年(1950)ごろ、占領軍が長崎を後にしてから、同住宅はマスメディアにも注目され、本や雑誌、パンフレットなどで「マダム・バタフライ・ハウス」として紹介され、歴史的根拠に乏しいものの、これは人々の興味を誘い、観光産業を刺激して戦後長崎の復活のきっかけとなった。昭和31年(1956)のダニエル・ダリュー、ジャン・マレー、岸恵子出演のフランス映画、「忘れえぬ慕情」は蝶々夫人を思い出させ、長崎に対する国際的な関心をさらに高めた。同32年(1957)、三菱重工は長崎造船所の前身である長崎溶鉄所の100周年記念として旧グラバー住宅を長崎市に寄贈。翌年、旧グラバー住宅が一般に公開されると、「マダム・バタフライ・ハウス」や「蝶々夫人ゆかりの地」の名称は長崎の観光産業を活性化させるために、標識、パンフレットやその他の宣伝に広く使われた。バスガイドまでも感動のアリア、「ある晴れた日」を歌う勉強をして旧グラバー住宅を訪れる観光客を楽しませたという。
2014年8月
南山手秘話
EPISODE 18
ジョルダン夫人と西洋音楽の普及
南山手8番地の邸宅に長年居を構えていたジョルダン一家は長崎における西洋音楽の普及に大きな役割を果たした。オーエ・ジョルダンはデンマーク・コペンハーゲンで生まれ。明治15年(1882)に同国の大北電信会社香港支局に技術者として就任し、その2年後には恋人のキャロラインをデンマークから招き結婚した。上海とアモイ(廈門)で勤務したあと、彼は明治24年(1891)年、長崎支局に転属になり妻と息子3人を連れて長崎にやってきた。ジョルダン夫妻と息子たちは熟練したミュージシャンでもあった。居留地で開催されるパーティーや舞踏会で演奏するだけでなく、楽器や歌の才能を持つ居留者たちを集めてその組織化を推進した。日露戦争が終結した明治38年(1905)、キャロライン・ジョルダン夫人の計らいによって「ナガサキ・ミュージカル・アソシエーション」(長崎音楽協会)が結成された。初期の頃、オーケストラの奏者のほとんどが在住外国人であったが、活水女学校音楽科の卒業生やジョルダン夫人の日本人生徒などが次第に加わるようになった。オーエ・ジョルダンは大正7年(1918)7月、帰らぬ人となり、坂本国際墓地に埋葬された。息子たちは大人になってから海外に移住した。西洋音楽の普及に尽力したキャロライン・ジョルダン夫人は、大正13年(1924)に多くの長崎の友人と生徒たちに惜しまれながら長崎を離れた。
2014年9月
南山手秘話
EPISODE 19
日本最初の領事館
安政6年(1859)に開設された長崎イギリス領事館は、日本最初の外国領事館であり、太平洋戦争直前に閉鎖されるまで、長崎における最も影響力のある外交機関として居留地社会の中心的施設という役割を果たした。
安政6年5月、ラザフォード・オールコック初代イギリス公使に随行して来崎したC・P・ホジソンは、長崎初代イギリス領事に任命されていたジョージ・モリソンの来日が遅れたため、大浦郷の妙行寺に仮設した領事館で業務を開始した。一行は6月13日(旧暦5月13日)、妙行寺境内の旗竿に初めてユニオン・ジャックを揚げた。同年7月に着任したモリソンは、領事館業務を引継ぎ、居留地の基盤整備に尽力した。しかし、彼は仮領事館の状況には驚いたようである。オールコック公使にあてた手紙で彼は次のように伝えている。「私はここに到着すると、領事館の施設は古びた寺院の小部屋、厨房、2軒の付属屋(その1つは馬屋に過ぎない)と背面および前面に広がる泥の庭から構成されていることを知りました。(中略)これは3人の紳士、巡査、および10~12名の使用人が公務を遂行するのに相応しいものとは到底いえません。」文久3年(1863)6月、モリソンは南山手11番地の「グリーンズ・ホテル」(後のベル・ビュー・ホテル、現在はANAクラウンプラザホテル長崎グラバーヒル所在地)に領事館を移設してやっと安堵することができた。一方、妙行寺は今も元の場所で法務を続けている。
2014年10月
南山手秘話
EPISODE 20
グラバーはスコットランド人だった
昭和32年(1957)10月10日、 三菱重工業株式会社は長崎造船所創業100年祝賀式記念事業として、旧グラバー住宅を長崎市に寄贈した。翌年、長崎市は同住宅を有料観光施設として一般に公開。入場料は大人10円で、入口に料金徴収のために無人ボックスが設置されたという。更に3年後の昭和36年(1961)、旧グラバー住宅は国の重要文化財に指定された。長崎市は、重要文化財指定の記念として、元の主トーマス・グラバーの胸像を旧グラバー住宅前に除幕した。現存するその胸像には次の碑文がある。
「英国人トーマス・ブレーク・グラバーは安政6年(1859)長崎に来て貿易業を営むかたわら近代的な造船・掘炭・製茶などの事業をおこしわが国産業の発展に貢献した。その間特に薩長土肥の諸藩に協力して明治維新の大業に寄与した。その偉功により勲二等旭日章を授けられ明治44年(1911)73歳で永眠した。ここに胸像を建てその功績を永く顕彰する。」
この碑文には間違いはないけれども、日本語の下にある英語訳の銘鈑には修正された跡がある。翻訳者は日本語の「英国人」を「Briton」とすればよかったのだが、Englishman(イングランド人)としたため、旧グラバー住宅を訪れたスコットランド人たちの怒りを買ってしまった。度重なる苦情を受けた長崎市は業者に頼んで、スコットランド出身だったグラバの国籍の英語訳を「Scotsman」に改めた。 2014年11月
EPISODE 21
クリフ・ハウス・ホテル物語
20世紀の変わり目ごろ、長崎は国際貿易港として空前の賑わいを呈していた。この時期に繁盛した西洋式ホテルのなかに、南山手10番地のクリフ・ハウス・ホテルがあった。このホテルは2つの大きな西洋風建築からなっており、ひとつには客室、もうひとつにはロビーやレストラン、ビリヤード場が設けられていていた。経営者は、日本の海運業に貢献していたウィルソン・ウォーカー元船長とその妻シャーロット。大正9年(1920)に日本人経営者に代わったが、事業は成功にはいたらなかった。同じ年に雨森一郎とその弟田中政彦が土地と建物を購入して田中・雨森病院を開設した。その後、旧クリフ・ハウス・ホテルの部屋の一部は外国人に月貸しされた。住人のひとりに昭和5年(1930)に来崎したポーランド出身のカトリック司祭マキシミリアノ・コルベがいた。コルベは印刷所を立ち上げ、「無原罪の聖母の騎士」を執筆し出版した。同11年(1936)に帰国した彼、はナチスを批判した罪でアウシュビッツ強制収容所に送られ、やがて処刑を宣告された妻子持ちの収容者のかわりを申し出て処刑された。昭和57年(1982)、コルベは教皇ヨハネ・パウロ2世により聖者の列に加えられた。旧クリフ・ハウス・ホテルの建物は戦後、三上工作所という工場に改装されたが、昭和48年(1973)の火事で焼失してしまった。現在は、レンガ造りの煙突だけが残り、往時の繁栄と国際交流を静かに物語っている。
2014年12月
南山手秘話
EPISODE 22
南山手の貴婦人、シャーロット・ウォーカー
オランダ生まれのシャーロット・ウォーカー(旧姓ノードホーク・ヘフト)は、日本郵船会社船長ウィルソン・ウォーカーの妻として約30年間長崎に居住した。彼女の父であるオランダ人商人M・J・B・ノードホーク・ヘフトは、横浜居留地で活躍し、劇場の開設や初期のビール醸造所の経営などで知られる。毎年開催さる「横浜山手ヘフト祭」は彼に因んで名づけられた。ウィルソン・ウォーカー一家は明治26年(1893)に神戸から長崎に移住し、南山手12番地に居を構えた。夫が瀬戸内海における水先案内を務めている間、シャーロットは隣接する南山手10番地でクリフ・ハウス・ホテルを経営した。また日本で生まれた5人の子供たちを長崎で育て、それぞれの結婚と離崎を南山手12番地の大きな西洋風住宅で見届けた。シャーロットは、夫ウィルソンが大正3年(1914)に死去した後も南山手に住み続けたが、同9年(1920)に長女の住む上海へ渡り、その後、南山手12番地の邸宅と10番地のクリフ・ハウス・ホテルを病院の開設を計画していた雨森兄弟に売却した。昭和12年(1937)、日中戦争が勃発すると、英国政府は上海に残る自国民を香港に避難させた。シャーロットと娘と孫たちもその中にいた。一家は香港で仮住まいの生活をしていたが、シャーロットは風邪を患い、同年9月26日に帰らぬ人となった。享年77歳であった。現在の長崎では、坂本国際墓地における夫ウィルソンの墓碑と、「南山手町並み保存センター」として移築保存されている旧南山手12番館のみがシャーロット・ウォーカーを偲ぶ。
2015年1月
南山手秘話
EPISODE 23
日本初のボウリング場
安政開港後、西洋からいち早く伝えられた屋内レクリエーションのひとつにボウリングがある。文久元年(1861)6月22日発行の英字新聞「ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」の中に、「ヒロババ・ストリート」(現在の広馬場商店街)に「インターナショナル・ボーリング・サルーン」開設を知らせる小広告が載っているが、この施設が日本最初のボウリング場と呼ばれるゆえんである。後に、居留地に新しく建設されたホテルや酒場では、ボウリングレーンの設置はあたりまえになった。その一つは、ドイツ人、ヨハネス・ウムラントが明治6年(1873)、南山手甲10番地に開設した酒場兼ボウリング場である。彼が同14年(1881)に他界した後、南山手甲10番地の施設は「ナガサキ・ボウリング・クラブ」として生まれ変わり、同37年(1904)、フレデリック・リンガーが土地と建物を競売で落札した。同年6月4日、クラブの新会長ジョセフ・デインティを含む40人が集まって新たな施設の発足を祝った。南山手甲10番地のボウリング場は太平洋戦争のころまで存続したが、戦後はリンガーの子孫が土地と建物を売却し、その跡地は現在駐車場となっている。毎日多くの観光客が行き来するオランダ坂の途中に、「ボウリング日本発祥地」の古びた祈念碑が目に留まる。しかし、それは南山手甲10番地の「ナガサキ・ボウリング・クラブ」の跡地を示すもの。実際の発祥地はやはり上記の広馬場商店街である。
2015年2月
南山手秘話
EPISODE 24
旧グラバー住宅の運命
旧グラバー住宅は、文久3年(1863)に建設された当初から、居留地でもっとも美しく立地条件の良い家であった。南山手3番地に位置するその前代未聞の建物は、鍋冠山の中腹から長崎港を見下ろす、まるで貿易と国際交流をつかさどる新時代のお城のようであった。トーマス・グラバーは明治10年(1877)に三菱の顧問として東京に移住するまで、南山手3番館を自宅として利用していた。永久に長崎を離れるつもりだったのか、彼は地元の英字新聞に家の売却広告を出したが、結局は売らずに所有件を持ち続け、長崎にいないときは他の外国人居留者に貸し出すようになった。その後、トーマス・グラバーの息子、倉場富三郎とその妻ワカは、明治42年(1909)から昭和14年(1939)に長崎三菱造船所に売却するまでグラバー邸を自宅としていた。進駐軍の撤退後、三菱長崎造船所は旧グラバー住宅の所有権を取り戻し、しばらくの間は社員クラブとして利用したが、同32年(1957)には、造船所の前身である長崎溶鉄所の100周年記念として長崎市に寄贈した。長崎市はその翌年にこの家を一般公開した。
昭和36年(1961)、日本政府が旧グラバー住宅を重要文化財として指定し、その後13年間この優雅な建物は観光施設「グラバー邸」として注目を集め、また同49年(1974)にオープンした「グラバー園」の目玉となった。明治10年に東京へ移住したトーマス・グラバーが売却に踏み切ったのであれば、同邸宅はまったく違う運命をたどったことだろう。
2015年3月
南山手秘話
EPISODE 25
悲運の倉場富三郎
長崎市役所に保管されている戸籍によると、トーマス・グラバーが明治3年12月8日(1871.1.28)、加賀マキという日本人女性との間に息子を授かったことが示されている。「富三郎」と呼ばれた子は少年時代を長崎と東京で過ごし、数年間のアメリカ留学を経て同25年(1892)に長崎へ戻ってきた。その後、日本の戸籍を取得し、公式に「倉場富三郎」と名乗った。倉場富三郎の温厚かつ几帳面な性格と語学力から、勤務先であったホーム・リンガー商会の様々な国際活動で役割を担った。重要な業績の一つは、汽船漁業会社を立ち上げて日本に初めてトロール船を導入し、20世紀初期の日本の漁業業界に革命を起こしたことである。彼の尽力もあり、長崎県は日本でも指折りの水産県に成長して現在に至る。国際理解を深めようとした倉場富三郎の努力とは裏腹に、昭和初期の長崎では戦時色が深まっていき、英米と関係ある人々は次第に肩身の狭い思いをするようになった。昭和14年(1939)、倉場は三菱長崎造船所に旧グラバー住宅を売り渡し、南山手9番館(現在の三菱南山手外国人社宅)に移住した。同20年(1945)8月9日、長崎の北部で原子爆弾がさく裂した時、倉場富三郎は家の中にいてその強烈な爆風を感じた。そして同26日に南山手の自宅で自らの命を絶ち、長崎とグラバー家の関係が悲劇的な結末を遂げた。終戦からわずか数日後に自殺したのは、単なる絶望感からでなく、戦いにおいて根本的にどちらの側にもつくことができない心の葛藤があったからだと考えられる。2015年4月
南山手秘話
EPISODE 26
晩年のフレデリック・リンガー
長崎の豪商フレデリック・リンガーは晩年、ほとんどの行事やビジネス活動から身を引き、南山手2番地の自宅でゆっくりと過ごすことを選んでいた。当時、長崎に住んでいたあるデンマーク人は、「リンガー氏は隠遁していて、ときどき昼食会に顔を出す以外は、長崎居留地の楽しい社会行事に参加しようとしなかった」と回想している。また、太り気味のリンガーは心臓病を患い、階段を登ることが困難になったので、自宅まで人力車が通れるような道をつくる必要があった。結果として、日本初期のアスファルト道が完成し、現在もその一部が残っている。オーストラリア国立図書館には、元ホーム・リンガー商会の職員であったウィリアム・ハーストンの以下の内容の手紙が保管されている。
明治39年(1906)12月に大浦7番地のホーム・リンガー商会事務所で火事が起きた。消防士が鎮火に取りかかっている間、ハーストンは雇い主リンガーのもとに緊急事態を知らせに急いだ。家の中は真っ暗であった。若いイギリス人は焦りながらドアベルを鳴らしたが、返事はなかった。彼は再びベルを鳴らし、ようやく家の奥で光が灯ると、光がみえる窓に向かい、「社長、あなたですか?」と叫んだ。「だれだ?」窓の反対側でリンガーは怒鳴った。「ハーストンです、ハーストン」「いったいどうした?」「事務所が火事です、事務所が火事です!」と答えると「じゃあ鎮火したらもう一度知らせに来い」と、ベテランイギリス人商人はぶつぶついうと窓を閉めて灯りを消した。
2015年5月
南山手秘話
EPISODE 27
美男子のリンガー兄弟
フレデリック・リンガーの次男シドニー・リンガーは父の死後にホーム・リンガー商会の後継者となり、南山手2番地の邸宅に妻と二人の息子と共に居を構えた。国指定の重要文化財としてグラバー園内に現地保存されている「旧リンガー住宅」である。
シドニー・リンガーの息子たち、マイケル(大正2年(1913)生)とヴァーニャ(大正5年(1916)生)は子供時代を長崎で過ごし、イギリスの名門学校マルバーン・カレッジを卒業後、昭和10年ごろに日本へ戻り、長崎と下関の家業の後継者として新しい生活を始めた。マイケルとヴァーニャの若い兄弟はほこりを被った旧長崎居留地に新風を吹き込み、ホーム・リンガー商会と瓜生商会(下関におけるホーム・リンガー商会の支店)の活動に新たな期待を呼び起こした。リンガー家の庭師だった富田幾太郎の義理の娘である富田純子氏(故人)によると、地元の女の子たちは、美男子のマイケルとヴァーニャが近くを通り過ぎるたびにうっとりみとれていたという。家族アルバムの写真には、日本人の友人やナガサキ・クラブの先輩たちとともにポーズを取ったり、仮装舞踏会や料亭で遊んでいたりする兄弟の様子が捉えられている。
戦後、歴史家のハロルド・S・ウィリアムズと文通したマイケル・リンガーは、当時外国人住民や旅行者に人気があった茂木のビーチホテルについて「独身時代の私と弟は、そこで中国から来た孤独な人妻や娘たちをもてなし、とても楽しい時間を過ごしたものだ」と回想している。
2015年6月
南山手秘話
EPISODE 28
ロシア領事館の面影
長崎最初のロシア領事、アレクサンドル・フィリッペスが明治元年(1868)11月から南山手9番地(後17番地)で事務所を開設したが、同3年(1870)に実施された外国人人口調査によると、彼が長崎居留地に在住するたった1名のロシア人であった。
明治9年(1876)、アレクサンドル・オラロブスキーがロシア領事に就任し、南山手甲5番地の自宅に領事館を開設した。長崎を訪れるロシア人が増加すると、領事館の敷地内にロシア海軍病院およびロシア正教会の教会が建立された。明治30年(1897)3月、ロシアの東洋艦隊軍艦7隻が長崎港に停泊し、その後も冬季には長崎に回航して避寒するのが恒例となった。同33年(1900)になると、ロシア人人口は142人に達し、他の欧米人人口を上回った。日露戦争の勃発により、長崎における日本とロシアの交流はほぼ停止状態になったが、戦後、南山手甲5番地の長崎ロシア領事館は復活し、ロシア正教会の日本人神父アントニイ高井が長崎における活動を再開した。その後、旧ロシア海軍病院跡地に長崎正教会の聖堂が建立され、太平洋戦争前夜まで存続した。ロシア革命後の大正14年(1925)、ザックハー・テル・アサチュロッフは最初の在長崎ソ連領事となり、領事館を南山手甲5番地から大浦海岸通りに面する大浦4番地(現ホテルニュータンダ所在地)へ移設した。昭和6年(1931)に帰任したアレクサンドル・マキシモフが領事館を南山手甲5番地に戻したが、翌年、長崎ロシア領事館の歴史に終止符が打たれた。
2015年7月
南山手秘話
EPISODE 29
江頭邸かつての主
マリア園の脇から下の道路へと至る狭い石畳の坂道は「ドンドン坂」と呼ばれ、周囲に建つ明治期の洋風建築群と共に、異国情緒を今なお残している。雨が降ると流れが急なことから「雨のどんどん坂」とも呼ばれている。
ドンドン坂を上る途中、保存状態の良い洋風2階建て住宅が目を引く。旧南山手22番地の裏手に建てられたこの明治の洋風建築は「江頭邸」と呼ばれ、現在も個人住宅として使われている。国選定の重要伝統的建造物群保存地区(南山手地区)を構成する伝統的建造物である。建設の経緯や元住民の詳細は不明だが、「ナガサキ・ディレクトリー」などの史料から、明治後期の10年間ほど英国人のヴァン・エス家が所有していたことが確認できる。トーマス・グラバーと同じ1838年に生まれたアーリ・ウィリアム・ヴァン・エス(Ary William Van Ess)は、オランダのロッテルダム出身。イギリス国籍を取得した彼は中国に渡り、明治2年(1869)からの5年間を北京イギリス公使館の護衛官として過ごし、同9年から36年までは煙台イギリス領事館の専属警官として業務に従事していた。イギリス人妻との間に3人の子供がいたが、何らかの理由で別れ、日本人女性小谷キズエと中国で結婚した。明治36年(1903)の退職後、妻キズエとその娘と3人で長崎にやってきて、南山手22番地に居を構えた。ヴァン・エス氏は大正2年(1913)10月、この住宅にて他界して坂本国際墓地に葬られた。享年74歳。妻キズエ氏は昭和36年(1961)、神戸にてこの世を去った。
2015年8月
南山手秘話
EPISODE 30
ウォーカー邸の防空壕
太平洋戦争勃発のニュースが長崎に届くと、憲兵隊は、R・N・ウォーカー商会を閉鎖させ、同商会の日本人従業員および南山手乙28番地のウォーカー邸に務める使用人や庭師を家に帰した。ロバート・ウォーカー2世夫妻は日本国籍を保持していたので強制収容所行きを免れたが、憲兵や特高警察は反日行動を防ぐためにその一挙一動や隣人との接触を厳しく監視した。昭和18年(1943)10月、日本内務省は全国に防空壕建設の命令を出した。まず民間団体が崖、丘陵、建物の床下に、続いて家族単位でこれら防空壕を庭や家に掘り始めた。ロバート・ウォーカー2世も長崎市民としてその命に従った。翌年までに、南山手の自宅の庭の斜面に5人が十分収容できる2部屋分の防空壕を一人で掘り上げた。同20年8月9日午前11時、ウォーカー家は南山手乙28番地の庭に腰を降ろして自家製の野菜で簡単な昼食をとろうとしていた。そこへ飛行機の爆音が遠くから響いて会話が遮られた。見上げると、米軍機が町の上空高く飛びその後にパラシュートが落下してくるのがロバートの目に映った。直ちに妻と3人の子供を防空壕に避難させたが、自身はそうする間もなくまばゆい閃光が空を覆い強力な熱線が背中を打ち、奇妙なほどの静寂が数秒続いた後、非常に大きな爆発と激しい爆風が吹き荒れた。衝撃に動揺し防空壕の暗闇の中で家族は互いに抱き寄せ合った。その間も長崎の北部上空にきのこ雲が舞い上がり、日本に2発目の原爆を投下して機体を軽くした米軍機が長崎港の空高く傾斜して南方へ姿を消した。
2015年9月
南山手秘話
EPISODE 31
ウォーカー氏の平和主義
昭和20年(1945)9月23日、連合軍の第一波が長崎港に到着し出島埠頭に上陸すると、捕虜の本国帰還、兵器没収、連合軍軍人の宿舎確保など複雑な作業に着手した。 連合軍はまもなく、南山手乙28番地に住み続けるロバート・ウォーカー二世一家は長崎に残る唯一の「外国人」であることを把握し、十分な食料や生活物資を与えた。ロバートにとって最もありがたかったのは、戦争勃発から味わえなかったスコッチウィスキーを部隊長が度々届けてくれることであった。戦犯に関する調査を進める中で、連合側は元憲兵など日本人容疑者を連れてきたが、ロバート・ウォーカー二世は決まってどの顔にも見覚えがないと答えたのであった。ウォーカー夫妻は長年の争いに疲れ果てていた。太平洋戦争前にうわべだけの国際親善への関わりを避けていたように、戦後も憎悪感や復讐心を煽ることには関わりたくはなかったのである。連合軍が去った後、ロバートとメーベル夫人は息子のアルバート、デニスと共に南山手乙28番地の住宅で静かな老後の生活を送り、日本の市民権をもつ英語名の住人として長崎では異彩を放っていた。ロバートは自宅のベランダで何時間も一人座って長崎港を見つめながら、過去の出来事や親戚、友人、仕事関係の全ての人々の顔をつくづくと思い出しながら隠遁生活を送っているようであった。昭和33年(1958)8月22日のロバート・ウォーカー二世の死は長崎の新聞でさえ取り上げなかったが、それが彼自身望んだことであったろう。
2015年10月
南山手秘話
EPISODE 32
リンガーの搾乳場
明治元年(1868)、フレデリック・リンガーと同僚のエドワード・Z・ホームが独立し、グラバー商会の茶葉貿易を引き継ぐ形で「ホーム・リンガー商会」を立ち上げ、大浦地区に事務所と製茶工場にて開業した。ホームは間もなく英国に帰ったが、リンガーは社名を変えずに営業を続け、長崎における外国貿易の第一人者となった。ホーム・リンガー商会は多様化しながら拡大を続け、やがて明治期長崎の大黒柱へと成長した。フレデリック・リンガーのビジネス活動に関する記録は豊富に残されているが、個人生活や趣味の多くは歴史資料に間接的にふれているだけである。例えば、彼が家庭用のバターとチーズを作るための牛乳を確保するために搾乳場を運営していたことはあまり知られていない。明治26年(1893)、匿名の住人が近所に漂う悪臭の苦情を長崎県知事に伝えていたおかげで関連資料が残っており、その苦情に対して、リンガーは英国領事、ジョン・J・クインに以下のように弁明した。
「私がヨーロッパに渡っていた間に当地で育っている家畜の数が自分の指示に反して適量を遥かに越えてしまったことを是非知っていただきたいと思います。これまでに隣人たちから苦情を受けたことは一切ありませんでしたが、おそらく今回の苦情はこの無計画な家畜の増加によるものだと考えています。現在家畜の量を減らす努力を始めており、今ある全ての苦情を取り除くために全力で取り組ませていただきます。」
搾乳場の場所は不明だが、もともとはリンガー所有の土地で、現在はグラバー園第二ゲートの近くにある「リンガー公園」の辺りだったと考えられる。
2015年11月
南山手秘話
EPISODE 33
フューレ神父の帰国理由
文久3年(1863)に来崎したパリ外国宣教会の宣教師ルイ・テオドル・フューレは、南山手に土地を購入して司祭館を建てた。大浦天主堂の建設に取りかかったが、完成を見届けずにプティジャン神父に引き継いで帰国。理由は、キリシタン迫害が続く日本での宣教活動に失望したからとされるが、実際は大浦天主堂の吊り鐘やその他の備品を調達するためだったと考えられる。パリ外国宣教会本部に保管されている資料によると、フューレ神父が帰国中にフランス貴族からの資金援助を受け、故郷ル・マン市のボレー工場から吊り鐘を二千フランで注文したという。鋳工師のボレー親子は、フランスで鋳工業だけでなく、自動車産業での先駆的な役割も果たしたことで有名である。父のアメデ・ボレーは、蒸気の力で動く革命的な自動車を開発し、そのあとを継いだ長男アメデは12人乗りの蒸気自動車「オベイサント号」をル・マンからパリまで18時間で走らせ、首都でセンセーションを巻き起こした。今日、世界三大カーレースのひとつであるル・マン24時間耐久レースが毎年開催されるル·マン市内にはボレー親子にちなんだ「ボレー大通り」がある。一方、親子によって鋳造されたブロンズの吊り鐘は、日本人信徒が発見された慶応元年(1865)、大浦天主堂の鐘楼に設置され、150年経った今も現役で鳴り続けている。信徒発見の知らせを受けたフューレ神父は再び長崎に上陸したが、明治2年(1869)にフランスへ帰国して故郷で余生を送った。
2015年12月
南山手秘話
EPISODE 34
悲運のリナ・リンガー
フレデリック・リンガーの1人娘リナ(Lina)は明治19年(1886)に長崎で生まれた。イギリスでの学校教育を終えて帰ってきた彼女は、父の猛反対を押し切って、英字新聞「ナガサキ・プレス」の記者を務めていたウィルモット・ルイスと結婚。ショックを受けたリンガーは突如イギリスへ帰国し、同年の秋に故郷のノーリッジでこの世を去った。その後、リナは長女を出産し、ウィルモットは「マニラ・タイムズ」紙の記者となり、家族とともにフィリピンに引っ越した。マニラでは次女が生まれ、一家は幸せな日々を過ごしていたが、大正5年(1916)、ウィルモットは第一次世界大戦を取材するためにフリージャーナリストとなって単身ヨーロッパへ渡った。ウィルモットはフランス政府から勲章を受け、さらに大正9年(1920)年に「ザ・タイムズ」紙のワシントン特派員という名誉ある地位を得てアメリカへ移住した。一方、リナは南山手14番地の実家(旧オルト住宅)に戻り、母親と兄弟に支えられて静かに暮らした。娘たちは南山手16番地の聖心女学校(現マリア園所在地)に通学した。大正14年(1925)、リナは夫の不倫を原因として、英国最高裁判所に離婚申請書を提出。この件を担当した裁判長は離婚を認め、一切の反論をしなかったウィルモットに対し、慰謝料と娘たちの養育費の支払いを命じた。しかし、ウィルモット・ルイスはほどなくしてこの重荷の大部分から免れることになった。それは、4年後にリナが43歳の若さで他界したからである。彼女の早過ぎる死は「悲しみ」が原因だったと子孫はいう。
2016年1月
南山手秘話
EPISODE 35
長崎伝統芸能館の秘話
グラバー園の出口には、「長崎伝統芸能館」という現代的な建物がある。来園者が旧グラバー住宅から下って来ると、この建物のドアをくぐって「長崎くんち」に関する映像や展示物のある広いホールを通過する。この敷地は、元々居留地の中にあった南山手4番地の細長い区画である。初めに永代借地権を取得したのは、トーマス・グラバーの弟たちのジェームズとアルフレッド。昭和8年(1933)にはリンガー家が土地を購入し、外国人住民の紳士社会組織である「ナガサキ・クラブ」に2階建ての木造建築を貸した。南山手4番地を含むリンガー家が保有していた土地のほとんどは、太平洋戦争中に敵国財産として日本政府により売却された。長崎近くの香焼島で造船所を運営していた川南工業は、大浦7番地のホーム・リンガー商会の建物に事務所を移し、川南家の人々は南山手にあるリンガー家の2軒の邸宅(現在の旧リンガー住宅と旧オルト住宅)に居を構えた。一方、南山手4番地の建物は日本軍の救護施設となった。かつては欧米人たちが庭でくつろぎながら眺めていた長崎港の景色は、警備軍の双眼鏡や侵入者への発砲に構える機関銃の照準機を通してみられていた。戦後に長崎へ戻ってきたシドニー・リンガーは、南山手4番地の土地と建物を長崎県共済組合に売り渡した。その後、同組合の宿舎が建てられ、「南山手荘」として長年親しまれた。昭和56年(1981)にその跡地に建設された長崎伝統芸能館は、去年も100万人以上の来園者を迎えた。
2016年2月
南山手秘話
EPISODE 36
最初のフランス領事
長崎居留地は、大村藩の領地だった戸町村大浦郷に開設された。万延元年(1860)に第1期の造成工事が完成すると、イギリス、アメリカ、ポルトガルおよびフランスの領事が借地する居留者のリストを作成した。当時のフランス領事はフランス人ではなく、ジャーディン・マセソン商会代表のスコットランド人商人、ケネス・R・マッケンジーだった。マッケンジーは、安政開港の数ヶ月前から来崎し、大浦郷妙行寺近くの民家を借りていた。開港当時から文久元年(1861)6月まで、彼はフランス領事代理を務め、現在は大浦天主堂所在地にあたる借家敷地に旗竿を立ててフランス国旗を揚げた。文久2年(1862)、フランス人医師レオン・デューリーが正式な長崎フランス領事として就任し、南山手の住宅に領事館を移した。しかし、デューリーは明治3年(1870)に京都へ移住し、同年にプロイセン・フランス戦争が勃発したために領事業務が一時停止された。その後、転々と場所を変えていた長崎フランス領事館は、永久的な設置場所が決まらないまま、明治41年(1908)に閉鎖され、イギリス領事がフランス領事の業務を兼務するようになった。大正9年(1920)ごろから太平洋戦争までの間、長崎在住のフランス人商人が母国政府の代表として職務を果たし、東山手甲13番地の自宅(現存)が最後の領事館となった。一方、最初の長崎フランス領事を務めて帰らぬ人となったケネス・R・マッケンジーは、大浦国際墓地で静かに永眠している。
2016年3月
南山手秘話
EPISODE 37
日本初のダイナマイト実演
明治14年(1881)2月、トーマス・グラバーとフレデリック・リンガーが新たな共同作業に取り組んだ。今回の目的は、日本初のダイナマイトのデモンストレーションを行うことであった。実演の前日、リンガーはイギリス領事に手紙を送り、長崎県知事に通知するよう要請した。長崎を訪問していたノーベル産業の専門家が、南山手のテニスコートと小型船を使って港内でダイナマイトの爆破実演を行うという内容であった。2月9日午後、天気にも恵まれ多くの日本人や外国人が集まった。専門家が一連の実演を行いダイナマイトの正しい取り扱い方とその想像を絶する爆発力、また通常の状態での安全性を示した。ダイナマイトの使用が日本の鉱業界に画期的な変化をもたらし、石炭を始め様々な砿物の産出高を上げることは明白であった。その後、トーマス・グラバーはダイナマイトの一部を自分用に残し、自宅の庭に井戸を掘るために使った。この事実は、近所の大浦天主堂のフランス人神父たちがイギリス領事に騒音の苦情を伝えたため、歴史に残っている。イギリス領事の叱責を受けて、グラバーは教会に隣接する羅典神学校の生徒たちが、南山手においてより大きく長期間にわたる騒音源となっていることを指摘し、「私たちの持つ敬虔な信仰心から、リンガー氏と私は以前からこれについての苦情は控えておりました」とくぎを刺した。その後、東山手の切り通し(オランダ坂)の開削工事など、ダイナマイトは発破として広く活用されるようになった。2016年4月
南山手秘話
EPISODE 38
ウィルソン・ウォーカー2世の決断
日本の海運業に貢献して長崎で余生を過ごしたウィルソン・ウォーカー船長は、一人の息子と5人の娘の父だった。日本で生まれた息子のウィルソン2世は、イギリス留学後に帰崎し、両親が経営していたクリフ・ハウス・ホテルの支配人となった。しかし、明治40年(1907)ごろ、ウィルソン・ウォーカー船長と一人息子の親子関係に亀裂が入ってしまった。子孫によると、その原因は息子が歓楽街で働く日本人女性との結婚を強く望んだからである。その話を聞いたウォーカー船長は激怒し、ホテルを売るぞと脅しをかけたという。結果として結婚が延期され、ホテル売却の話も取り下げられたが、翌年ウィルソン2世が結婚を貫く意思を表した時、父は息子を勘当し、そしてウォーカー家で二度とその名前を口にすることを許さなくなったのであった。ウィルソン2世は婚約者と共にこっそり長崎を出て満州へ渡り、安東にある中国海事税関に就職した。息子が去った後、ウォーカー船長はクリフ・ハウス・ホテルの経営を妻シャーロットに任せ、南山手12番の家で静かに引退生活を送っていた。我が家のベランダでくつろぎ、港を見下ろし、娘たちが学校を卒業して花嫁修業に励む姿を見守り、居留地の社会活動には時折参加した。大正3年(1914)秋、ウィルソン・ウォーカー船長は病に倒れ、家族に看取られて亡くなった。69年の生涯のうちの46年間を日本で過していた。母とは連絡を取り合っていた息子のウィルソン2世も大急ぎで長崎に戻り、父の最期に間に合った。2016年5月
南山手秘話
EPISODE 39
夢の南山手12番地
昭和40年(1965)ごろに発行された左の絵はがきは、開発ラッシュで消えゆく前の南山手界隈を鮮明にとらえている。大浦天主堂の正面階段から洋館群を屋根越しに長崎港を撮影したものである。当時、大浦天主堂は国宝の指定を受けていたが、毎日のミサはそのまま行われていた。門前の土産品店が時代の移り変わりを感じさせるが、東急ホテル(現在のANAクラウンプラザホテル長崎グラバーヒル)やその他の近代建築がまだ現れておらず、煙突を持つ居留地時代の洋風建築が残っていたことが分かる。この辺りは旧南山手12番地。今では新しいカトリック大浦教会が立つ場所だが、居留地時代は多くのイギリス人やロシア人が住んでいた閑静な住宅街であった。日本郵船会社のイギリス人船長で、キリンビールの筆頭株主でもあったウィルソン・ウォーカーも長年、家族共々ここに住んでいた。絵はがきが発行されたころ、旧ウォーカー住宅とウォーカー夫人がかつて経営していたクリフ・ハウス・ホテルの建物はそれぞれ、雨森病院と三上工作所としてまだ利用されていた。東急ホテルの前身である11番地のベル・ビュー・ホテルは大正10年ごろに廃業し、澤山家の豪邸がホテルの跡地に建設された。戦後になると、澤山邸は「異人館」という観光施設として公開されたが、グラバー園が開園したと同じ昭和49年(1974)に新しいホテルの敷地として再開発された。その後、旧南山手12番地は土産品店がひしめき合う観光地の門前町として賑わってきたが、往年の街並みと情緒は残念ながら過去の夢となった。2016年6月
南山手秘話
EPISODE 40
南山手乙9番館の真実
松が枝町に居留地時代の面影を伝える大きなレンガ造り倉庫があり、隣の旧南山手乙9番地には美しい2階建洋風住宅がたたずんでいる。庭に設置された説明板には、ロシア人実業家G・ナパルコフが明治中期に同住宅を建設したと記されている。しかし、領事館記録などを見ると、明治5年(1872)からイギリス人荷揚げ業者チャールズ・サットンが南山手乙9番地の借地権を保有していたことが分かる。英字新聞の発行人でもあった彼は、その数年前、長崎の路地裏で浪人に襲われ左腕を切り落とされるという経歴の持ち主だった。明治17年(1884)年から、サットンの同僚アーサー・ノーマンが南山手乙9番地の借地権を譲り受け、同25年(1892)にサットンが亡くなった後、英字新聞の経営も引きついだ。これらの史実からみて、現存する住宅の建築主は上記のナパルコフではなく、サットンまたはノーマンだったと推定できる。明治31年(1898)、日本郵船会社(NYK)の元船長ロバート・N・ウォーカーが家族とともに南山手乙9番館に居を構え、同35年(1902)に現存するレンガ造り倉庫を隣に建てた。その後、ウォーカーの次男ロバート・ウォーカー2世が南山手乙9番地の土地と建物を売り、昭和10年(1935)から中村家の住居となった。平成4年(1992)、長崎市が老朽していた建物を買い取り、修復工事を行った。現在は、美術館として有効に活用されているが、元住人たちのことはほとんど忘れられている。2016年7月
南山手秘話
EPISODE 41
狂人のアーサー・ノーマン
イギリス人のアーサー・ノーマン(Arthur Norman)は明治8年(1875)ごろに来崎し、20年以上にわたり、英字新聞編集者、パブリックホール(居留地公民館)支配人およびナガサキ・ボウリング・クラブ会計係として活躍した。前任者のチャールズ・サットンから英字新聞「ライジング・サン・アンド・ナガサキ・エクスプレス」の編集を引き継いだ彼は、社説を通して長崎居留地に関連する様々な出来事や問題について博学な意見を表明した。自宅は、下り松(現在の松が枝町)の印刷所裏手の南山手乙9番館(現存)にあった。ノーマンは、明治18年(1885)に創設されたナガサキ・フリーメイソン・ロッジにも中心的な役割を果たした。印刷所の2階を集会所としてロッジに貸し、フリーメイソンのマークを刻んだ門柱を入り口に設置した。その後、彼はフリーメイソン・ロッジの事務係を務めた。しかし、仕事のストレスに耐えかねて、ノーマンは次第に神経衰弱に陥り、奇妙な行動をとるようになった。明治30年(1897)、調査を行ったイギリス領事が医者の診断に基づきノーマンを強制入院させ、オークションにより彼の財産を売却。英字新聞に掲載されたオークション広告は、「A・ノーマン氏、狂人」と題されていた。同年11月、香港の精神病院に収容されたアーサー・ノーマンは帰らぬ人となった。昭和30年代、下り松(松が枝町)47番地にあった元印刷所の洋風建築は取壊されたが、表の門柱だけが保存され、グラバー園に移され現在に至る。しかし、説明板にはアーサー・ノーマンの名前がない。2016年8月
南山手秘話
EPISODE 42
キリンとグリフィン
旧グラバー住宅の玄関に入ると一対の狛犬が目を引く。東京のグラバー邸で撮影された写真にこの狛犬が写っていることから、トーマス・グラバーが東京の自宅に置いていたことが確認できる。説明板には、「この狛犬は今日のキリンビール社のラベルのもとになった」と書かれている。トーマス・グラバーとその仲間は明治21年(1888)、キリンビールの前身会社であるジャパン・ブルワリー・カンパニーを横浜で創設したことも、グラバーが現在も使用されているラベルを創業の翌年に提案したということも史実である。しかし、キリンを描いた画家の名前も、ビールのシンボルにこの奇獣を選んだ経緯も不明。ましてや、狛犬がモデルになったことを示す証拠はどこにも見当たらない。グラバーが狛犬ではなく、麒麟とよく似た西洋の奇獣「グリフィン」からラベルのヒントを得たと考えられる。中国の神話に現れる霊獣である麒麟は、体型と顔はそれぞれ鹿と龍に似て、牛の尾と馬の蹄を持つ。一方、グリフィンはライオンの胴体に鷲の頭と羽を持っており、「西洋版の麒麟」と呼んでも差し支えないだろう。イギリスにおけるビール業界の老舗であるフーラー社は、グラバーが子供のころからロンドン郊外で営業しており、グリフィンを創業当初からロゴマークに使用。現在でも「ロンドン・プライド」などイギリスで最も有名なビールをつくり続けている。今や世界中に知られるキリンビールのラベル。麒麟がラベルに登場した経緯に関するさらなる研究が期待される。2016年9月
南山手秘話
EPISODE 43
炭坑技師の急逝
旧南山手乙27番館は南山手に現存する数少ない幕末の洋風建築。元々トーマス・グラバーの弟アレクサンダーが住んでいたが、グラバー商会倒産後、ここに住んだ人々の中にはスコットランド人ジョン・ストーダット(John Stoddart)がいた。エジンバラ大学工学部を卒業した彼は、明治11年(1878)に高島炭坑の技師として来崎。同炭坑が三菱経営となった明治14年(1881)、ストーダットは監督炭坑技師に抜擢され、長崎県における炭坑開発に大きく貢献していった。ストーダットは明治23年(1890)に結婚して翌年からイギリス人の妻とともに南山手乙27番館に居を構えた。同年、若い夫婦はクリスマスの祝日を楽しく過ごし、ストーダットは正月早々に商用のため上海へ出発した。1月10日の夜に長崎へ帰ってきたとき、彼は具合が悪く熱にも侵されていた。しかし、友人たちの助けを断り高台にある自宅まで寒い夜の中をのぼり帰った。驚いた妻はすぐに医者を呼んだが、その甲斐もなく翌日に急性肺炎で息を引き取った。享年36歳。墓碑は坂本国際墓地に今もたたずんでいる。ストーダット夫人が長崎を去った後、南山手乙27番館はドイツ人船長ヨハン・ジェセルセン一家の住宅となったが、大正7年(1918)ごろから大浦界隈でジャパン・ホテルを経営していた清水新太郎の所有となり、昭和10年代まで外国人専用の賃貸住宅として使われた。現在、旧南山手乙27番館は「南山手レストハウス」として公開されており、独特な和洋折衷様式を伝えながら過去の悲話をささやき続けている。2016年10月
南山手秘話
EPISODE 44
忘れられた初代所長
旧長崎居留地の最も有名な洋風建築のひとつでる南山手25番の邸宅はもはや長崎にはなく、愛知県のテーマパーク「明治村」に移築保存されている。記録によれば、この区画の最初の借地権保持者は幕末期に来崎したアドリアン商会のオランダ人従業員だが、明治村に移築され登録有形文化財となっているバンガロー式木造住宅を建てたのはスコットランド人技師ジョン・F・コルダー(John F. Calder)である。彼は慶応3年(1867)に来日し、長崎のボイド商会に、その後横浜の三菱製鉄所、神戸の大阪造船所を経て、三菱が長崎造船所を国から払い下げを受けた際、初代所長として請われて再び長崎の地を踏んだ。当初は造船所近くの会社が用意した住宅に住んだが、明治22年(1889)に南山手に居を構えた。大阪造船所時代に「ドライドック」を建造、また長崎造船所では日本初の鉄製汽船で昭和37年(1962)まで高島炭鉱と長崎を結んでいた「夕顔丸」を建造するなど、明治期日本の造船業の発展に寄与した。コルダーは、長崎におけるフリーメイソン・ロッジ(集会所)の初代グランドマスター(ロッジ長)にも選ばれ、居留地社会の中で活躍していたが、明治25年に癌を患い、45歳の生涯を長崎で終えた。現在、南山手25番地には近代的なマンションが立っており、旧24番館を含む雨のどんどん坂界隈の数少ない建物が往時の情景を伝えている。一方、三菱長崎造船所の創立と発展に貢献したスコットランド人技師ジョン・コルダーは長崎の坂本国際墓地に静かに眠むっている。2016年11月
南山手秘話
EPISODE 45
最後の大型レンガ倉庫
松が枝町に居留地時代の面影を伝える大きなレンガ倉庫が目につく。現在は製綱工場として使われているが、その意外な来歴は以下の通りである。場所は江戸時代から馬小屋が立ち並んでいたが、長崎居留地の開設に伴い「下り松44番地」として区画され、外国人が借地権を保持するようになった。英字新聞「ナガサキ・プレス」の明治31年(1898)3月31日号に載った「貴重な井戸と数件の馬小屋などを含む」という同区画の売却広告から、それまで馬小屋のままで利用されていたことが伺える。下り松44番地の借地権をこの時点で獲得したのは、日本郵船会社の元船長ロバート・N・ウォーカー。荷揚げ業者として開業していた彼は、家族共々隣の南山手乙9番館に居を構えていた。明治35年(1902)、荷物の一時保管を目的としてレンガ倉庫を建てたが、翌々年、長崎のオークションで清涼飲料水製造機一式を購入し、建物内に「バンザイ清涼飲水会社」を開設した。大正8年(1919)に閉鎖されるまで、同工場はジンジャーエールなど炭酸飲料を独自のラムネ瓶で生産した。大正14年(1925)、事業を引き継いでいたウォーカー船長の次男ロバート・ウォーカー二世は工場の機材とレンガ倉庫を売りに出し、翌年、長崎の実業家中部悦良に譲った。この取引により、幕末から続いていた永代借地権が抹消された。その後、レンガ倉庫は大日本製氷、日本食料工業、日本水産、三菱重工業などの手に渡り数奇な運命をたどった。昭和28年(1953)、大阪の前岡製綱社がレンガ倉庫を購入して子会社として「寶製綱株式会社」を開設し、現在に至る。2016年12月
南山手秘話
EPISODE 46
日本初期の西洋芝生
西洋の芝生庭園の歴史は、牧草地の風景を庭に取り入れたいと考えていたイギリスの地主貴族たちから始まる。芝生はやがて中産階級や庶民の庭にも普及、さらにイギリス風景式庭園のみならずフランス平面幾何学式庭園をはじめ様々な様式の庭で使われるようになり、欧米の住宅では芝生はごく一般的な存在となった。安政開港後の南山手で日本初期の西洋芝生庭園が造られた。南山手14番地のウィリアム・オルトの邸宅(現在の旧オルト住宅)が慶応元年(1865)に完成しているが、その直後に撮影された写真には、地ならし用ローラーを押す人物が写っている。この事実から、長崎居留地における芝生庭園の造成は幕末期に始まったと推察できる。ウィリアム・オルトやその他のイギリス人たちは、観賞はもとより、芝生庭園で西洋の野外スポーツやゲームを楽しんでいた。テニス、ボーリングやクロッケー(芝生で行われるイギリス発祥の球技で、日本におけるゲートボールの原型)が行われるようになった。南山手2番館(現在の旧リンガー住宅)と南山手3番館(旧グラバー住宅)の間にも芝生庭園が造られ、テニスなどのみならず野外コンサート、パーティーおよびその他の社交的つどいにも使用された。戦後、同庭園はそのまま市民憩いの場となったが、グラバー園の開園後、石畳が敷かれた多目的スペースに変り、現在はガーデンカフェとして使われている。芝生庭園の面影を残す唯一のものは、グラバー園内の細道の片隅に忘れられたように放置されている、石でできた重い地ならし用ローラーだけである。2017年1月
南山手秘話
EPISODE 47
旧リンガー住宅と戦争
南山手2番館(現在の旧リンガー住宅)で生まれ育ったシドニー・リンガーは昭和15年(1940)10月、戦争勃発の危機が迫ってくる中、妻アイリーンと共に長崎から上海に逃れた。同18年(1943)、二人は日本軍により拘留され、終戦まで中国の強制収容所で飢えをしのいだ。一方、長崎におけるリンガー家所有の土地と建物は、本人不在のまま「敵国財産」として売却された。リンガー夫妻がようやく長崎に戻ることができたのは昭和26年(1951)2月のことであった。何年もの間幸せに暮らしていた南山手2番館は比較的良好な状態で建っていたが、それぞれの部屋には知らない日本人家族が不法に住み着いていた。シドニーたちは、財産を取り戻す法的手続きを済ますのに数年がかかり、その後日本に帰る機会はあったものの、もはや住人として戻るというよりは、旅行者として訪れるという状況であった。そのある日、南山手の自宅前で長年リンガー家に仕えていた庭師、富田幾太郎さん一家と左の写真をとった。シドニーは昭和33年(1958)から同39年(1964)まで、広島と長崎に設立された原爆障害調査委員会(ABCC)のアメリカ人専門家たちに南山手の自宅を貸した。彼らはその緑に囲まれた旧居留地の情緒や一望できる港の風景を楽しんでいたが、建物の波乱に満ちた歴史についてはほとんど知らなかったことだろう。昭和40年(1965)、シドニーは代理人を通じて交渉に応じ、1800万円の売値でその土地と建物を長崎市に売却した。翌年の昭和41年(1966)、南山手2番館は「旧リンガー住宅」として、旧グラバー住宅とともに一般公開され、現在に至る。2017年2月
南山手秘話
EPISODE 48
十六番館の昨今
グラバー園出口のそばに「十六番館」という現在では使われていない観光施設がある。建物は幕末の東山手16番地に建てられた西洋風建築だが、慶応3年(1867)年夏に日本政府が行った外国人居留地の調査によると、「ジョセフ・ヒコ」が住人だった。 兵庫県で浜田彦蔵として生まれたジョセフ・ヒコは、嘉永3年(1850)、乗っていた船が太平洋を漂流していたところをアメリカ船に救助された。若干13歳の時であった。合衆国で教育を受け、安政6年(1859)に日本へ帰国した。慶応3年(1867)6月に来崎した彼は、そのすぐれた言語能力が認められ、肥前藩の代理人となり、グラバー商会にも籍を置いた。同年、東山手の自宅に後の首相伊藤博文と長州の勤王派木戸孝允の訪問を受けたという記録が残っている。明治12年(1879)、メソジスト伝道会が東山手16番館を購入し、活水女学校を創設した。その後、米国改革派教会が建物を宣教師住宅として確保したが、やがて活水女学校が東山手キャンパスの一部に組み入れた。太平洋戦争後、建物は荒廃したが、元宝塚歌劇のスターで長崎県生まれの古賀野富子(芸名嵯峨あきら)により購入され、解体を免れた。昭和32年(1957)、古賀野は旧グラバー住宅の近くに建物を移築し、資料館として公開。建物は移設後も「十六番館」と呼ばれ、古賀野富子が亡くなるまで、観光名所として賑わった。今日、空き家となった建物は、長年にわたる活用と度重なる改修により往年の姿がほとんど消失している。しかし、長崎居留地の忘れられた物語を今なお囁き続けている。2017年3月
南山手秘話
EPISODE 49
ツル夫人はどこの人?
淡路屋ツルはトーマス・グラバーの人生の伴侶だったが、正式に結婚しなかった二人の出会いの経緯はほとんど知られていない。グラバーは、富三郎とハナという二人の子供はいたが、ハナだけがツルの子だった。長崎市役所に保管されている戸籍によると、明治3年(1870)に生まれた富三郎の実母は「加賀マキ」であり、なおツルの戸籍では彼は「養子」となっている。ツルは明治9年(1876)にハナを出産したので、明治4年から9年の間にグラバーと結ばれたようである。ツルは大阪市新町に生まれ、その後「淡路屋安兵衛」の養子になったと戸籍に記されているが、他方では彼女は豊後(大分県)出身という記述もあるので釈然としない。昭和24年(1949)、義理の曾孫に当たる野田平之助がツルの略歴を次のように新聞記者に伝えている。「大分県竹田村岡城御普請大工中西安兵衛の娘としてツルさんは生まれ、十五歳の時同町の山村國太郎と結婚して山村ツルと名乗り文久三年娘センを生んだが、しゅうととの折れ合いがわるくそのうえ夫國太郎の乱行にたまりかねて離婚して大阪で一年ばかり芸者をしたのち長崎に渡り、ここでも芸者をしているうち、当時の三菱造船所の技術顧問をしていた英人グラバー氏と結婚、東京で四十九歳を最後として華やかな環境の中に死んで行った。」(「長崎日々新聞」昭和24年10月2日号、原文のまま)ツルが東京で他界した明治32年(1899)以降、トーマス・グラバーが他の女性と結ばれることはなかった。2017年4月
南山手秘話
EPISODE 50
旧グラバー住宅は住宅
旧グラバー住宅は、世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の一つだが、構成施設リストにおける正式名称の日本語と英語に違いがある。日本語では「旧グラバー住宅」に対して、英語では「Former Glover House and Office」、つまり「旧グラバー住宅と事務所」となっている。世界遺産関連の資料をみると、「事務所」の根拠として提示されているのは一枚の古写真のみ。幕末当時の南山手に設置された大砲のそばを散策し、ライフル銃を手に持つ武士を捉えたものである。同時期にねずみ島で撮影されたグラバーやその他の外国人たちの集合写真にも武士風の人物が写っており、長崎奉行所の役人または警備員と思われる。ちなみに、上記の写真に見る武士が顧客で、旧グラバー住宅が「事務所」として使われていた証拠にならない。どうやら世界遺産という勲章の取得が優先され、歴史的事実の掘り起しと読み解きが適当なところで切り上げられていたようだ。実際、トーマス・グラバーが自宅において幕末の志士たちを接待したことを示す手紙、回想録、写真やその他の記録がない。屋根裏のいわゆる「隠し部屋」は観光名所として注目されるが、これについてもそれを位置づける明確な資料はない。他方、グラバー商会の事務所は大浦海岸通り2番地(現長崎市民病院辺り)にあったことは、さまざまな第一史料で確認できる。長崎市は、世界遺産登録が決まったからこそ、旧グラバー住宅やその他の構成施設の「真実」を世界に伝える義務がある。今後、同住宅の史実を厳密な研究調査を通して明らかにしていきたいと思う。2017年5月
南山手秘話
EPISODE 51
蝶々夫人ゆかりの地
旧グラバー住宅の最後の住居者は、アメリカ進駐軍大佐のジョセフ・ゴールズビーと妻のバーバラであった。昭和22年(1947)から約3年間居を構えた二人は、同住宅を「マダム・バタフライ・ハウス」と呼んだ。戦前のあらゆる文献には、グラバー家の人々や近所の日本人たちが「蝶々夫人の家」のあだ名を使った形跡はない。長崎が有名なオペラの舞台であることだけ知っていたゴールズビー夫妻がエキゾチックな建築様式と美しい景色に魅せられて使い始めたのだろう。 初めは進駐軍の遊びに過ぎなかったが、やがて日本人も「蝶々夫人の家」に着目し、未だ復興ならない被爆地に観光客を誘って経済を立て直すきっかけにしようと考えた。昭和23年(1948)5月に毎日新聞の取材を受けた郷土史家・島内八郎は、旧グラバー住宅に蝶々夫人の記念碑を設置する計画が持ち上がっていることを明らかにした。「あそこならお蝶夫人の家のイメージにホンニピッタリ」というのが理由だった。上記取材後、毎日新聞の記者とカメラマンが旧グラバー住宅を訪ね、同年8月10日付の新聞に「お蝶夫人の宅跡発見」という見出しの記事を掲載した。写真には、同住宅を背景に蝶々夫人をいかにも意識した風に肩越しに和傘を差してポーズを取るゴールズビー夫人の姿があった。しかし、トーマス・グラバーやわずか3年前に自らの命を絶っていた長男倉場富三郎の名前が記事になかった。その後、旧グラバー住宅は、「蝶々さんの家」または「蝶々夫人ゆかりの地」として長崎の新たな観光産業を支えていった。2017年6月
南山手秘話
EPISODE 52
忘れられた「異人館」
旧グラバー住宅が竣工した年と同じ文久3年(1863)、初期の西洋式ホテル「グリーンズ・ホテル」が南山手11番地で建設された。ベル・ビュー・ホテルに改称され、大正9年(1920)に廃業するまで長崎居留地の高級宿泊施設として賑わった。廃業と同年、長崎の経済界に君臨していた澤山精八郎が土地と建物を購入し、跡地に豪華な洋風住宅を新築した。同住宅はその後、旧居留地の情緒が残る南山手に異彩を放った。大村藩士澤山熊右衛門の長男として生まれた澤山精八郎は、長崎の広津館で英語を学びアメリカ領事館の勤務を経て、明治9年(1876)に父が経営する運送業を継承して澤山商会を設立。澤山汽船や長崎銀行などを設立して長崎の発展に貢献するかたわら、長崎県会議員や貴族院議員も務めた。長崎港に寄港したフランス海軍将校を歓迎するレセプションを開催し、他界する前年の昭和8年(1933)にはフランス政府よりシュヴァリ・エド・シジオン・ドーヌール勲章を受賞した。息子の澤山昇吉は昭和32年(1957)に初代在長崎フランス名誉領事を務め、澤山商会の後継者と長崎国際観光センター会長として戦後長崎の復興に尽力した。同41年(1966)4月、南山手の自宅を「異人館」という観光施設に改造して公開し、話題を呼んだ。しかし、「異人館」は長くは続かなかった。南山手を訪れる観光客の急増に伴い、旧澤山邸を解体して跡地に近代的なホテルを建設することとなった。グラバー園が開園したと同じ昭和49年(1974)、東急ホテル(現在のANAクラウンプラザホテル長崎グラバーヒル)が開業した。2017年7月
南山手秘話
EPISODE 53
ウィリアム・オルトと岩崎弥太郎
イギリス人商人ウィリアム・オルト(William Alt)が南山手14番地に建てた豪邸は現在、国指定重要文化財「旧オルト住宅」としてグラバー園で保存・公開されている。ウィリアム・オルトは1840年に陸軍将校の長男としてロンドンで生まれた。父が早く亡くなり、ウィリアムは家族を助けるために13歳から帆船シャーロット・ジェーン号の乗組員となって故郷を離れた。1857年10月、上海に寄港した際、彼は下船してポルトガル人経営のバロス商会に就職。翌年、上海の税関所に転職して国際貿易のノウハウを身につけた。安政6年(1859)10月、開港後の長崎を訪れて商業の可能性を感じ、上海に一旦戻ったものの、税関所の退職金と友人からの融資などを資本に貿易商者として独立して長崎において「オルト商会」を開設。まだ19歳の若さであった。その後、オルト商会は飛躍的に成長し、グラバー商会やウォルシュ商会と共に長崎居留地の発展に貢献した。貿易活動は日本茶、海産物や米などの輸出と食料、布類や中古船などの輸入であった。土佐藩の岩崎弥太郎と特に親交が深く、三菱社創設の一翼を担った。次のエピソードは「岩崎弥太郎伝」に紹介されている。慶応3年(1867)、ウィリアム・オルトと岩崎弥太郎は乗馬で外出した。長崎郊外の関所に到着したとき、オルトは戻ることを提案したが、岩崎は見張りの者に対し、拒否すれば国際的な衝突を招くことになると巧みに警告することによって、2人を通すことを承服させた。驚いたウィリアム・オルトの顔が眼に浮かぶのである。2017年8月
南山手秘話
EPISODE 54
旧レスナー邸の風景
明治時代になると、ヨーロッパやロシア出身のユダヤ人商人たちが上海経由で長崎へ来航するようになった。彼らの多くは梅香崎や大浦川の沿岸地域といった居留地の下等地に住み、上海やその他の港町と同様に、居酒屋や仕立て屋を営んだ。しかし、長崎で繁栄の道を切り開いて居留地の発展に貢献したユダヤ人もいた。ジーグムンド・レスナーもその一人である。レスナーは明治17年(1884)に来崎し、「S・D・レスナー商会」を設立。その後、梅香崎に移り、輸入食品、衣類やアクセサリーを販売しながら不動産などを取り扱う競売業も展開した。そのころ、彼は同僚の協力を得て、日本における最初のシナゴッグ(ユダヤ教会)を自社の商店に隣接する梅香崎11番地に建設した。好調の波に乗ったレスナーは、家族と共に南山手15番地の豪邸に居を構えた。明治38年(1905)に新設したさらに大きな商店は、ロンドンの有名百貨店にちなんで「ホワイトリーズ・オブ・ナガサキ」と呼ばれ、人気を博した。ジーグムンド・レスナーは日露戦争後も商業活動を継続したが、第一次世界大戦が勃発すると大きな不幸に遭遇した。彼はオーストリア国籍を有していたため、敵国民と見なされ営業停止処分になった。戦後に営業再開を許されたが、大正9年(1920)に急死し、坂本国際墓地に埋葬された。享年61歳。レスナーの死後、長崎のユダヤ人社会が急速に衰退し、悲しみにくれた妻のソフィー・レスナーは、南山手15番地の邸宅を含む長崎における全ての財産を売って上海へ移住した。2017年9月
南山手秘話
EPISODE 55
旧グラバー住宅の秘宝
旧グラバー住宅の食堂の壁に、「大海原は田んぼのように豊か」を意味する「大海是田」と書かれた扁額がある。 落款やサインから、著名な海洋水産学者である松原新之助が倉場富三郎に贈ったものと判る。号を「瑜洲」と称する松原新之助は、水産講習所(後の東京水産大学)の初代所長。一方、明治3年(1870)にトーマス・グラバーの長男として生まれた倉場富三郎は、学習院やペンシルベニア大学での学生時代を経て、同27年(1894)にホーム・リンガー商会に就職した。重要な業績の一つは、ホーム・リンガー商会の企画として汽船漁業を立ち上げて日本に初めて蒸気トロール船を導入し、二十世紀初期の日本の漁業業界に革命を起こしたことである。扁額に日付はないが、「汽船漁業」の文字があることから、倉場富三郎が同社の専務を務めていた明治40年(1907)から大正初年の間に松原新之助が長崎を訪れ、水産業に携わる者同士として倉場富三郎に書を贈呈したと思われる。大正3年(1914)に第一次世界大戦が勃発すると、長崎を中心に活動していたトロール船の多くが軍用船に改造するために売却された。倉場富三郎は、同6年(1917)に汽船漁業の看板を下ろし、すべての船舶をイタリア海軍へ譲った。昭和14年(1939)、グラバー住宅は三菱長崎造船所の所有となり、太平洋戦争直後の倉場富三郎の自殺とアメリカ進駐軍による同住宅の接収も続き、元の家具や調度品が分散してほとんどが行方不明となった。その中で、「大海是田」の扁額は奇跡的に残った貴重な遺品である。2017年10月
南山手秘話
EPISODE 56
旧リンガー住宅を建てた人
グラバー園に現地保存されている「旧リンガー住宅」(国指定重要文化財)は元々リンガー家ではなく、トーマス・グラバーの弟アレクサンダーが建てたものである。アレクサンダーはグラバー商会に入社するために1863(文久3)年に来崎し、翌年に南山手2番地(旧リンガー住宅所在地)に自宅を建てるために永代借地権を取得した。その後、スコットランドの故郷アバディーンから呼び寄せた恋人メアリー・フィンドレーと結婚したが、間も無く帰国した。1870(明治3)年ごろに再び長崎へ来航するが、妻と一人息子ライルと別れてひとりになっていた。アレクサンダーは南山手2番地の住宅に戻らず、高島炭坑に勤め、グラバー商会の破産整理に追われる兄トーマスを手伝った。同住宅は1874(明治7)年にフレデリック・リンガーの所有となり、リンガーが1883(明治16)年にカロリナ・ガワーと結婚するころに入居。その後、リンガー家の人々はこの家を「ニバン」という愛称で呼ぶようになった。一方、アレクサンダー・グラバーは同じ1874(明治7)年に長崎を再び離れた。その後数年間の消息は不明だが、ジャーディン・マセソン商会の上海事務所に勤めていたと思われる。1882(明治15)、長崎へ戻って来た彼は、ジャーディン・マセソン商会代理人の肩書きを持っていた。同年7月28日、米国進出をもくろんでいたトーマスとアレクサンダーは、市場調査のためにアメリカ西海岸へ向かった。結局トーマスだけが日本へ戻り、アレクサンダーはワシントン州で土地を買い、余生をアメリカで過ごした。2017年11月
南山手秘話
EPISODE 57
グラバー園の共同水栓
南山手・グラバー園の移築保存エリアには、古びた鉄製の給水栓が目を引く。これは、長崎に近代水道が完成した1891(明治24)年ごろに市内に設置され、太平洋戦争後に廃棄されず、グラバー園に移設された貴重な歴史遺産である。 イギリス人技師ジョン・W・ハートは1886(明治19)年に、フレデリック・リンガーの要請で長崎を訪れた。ハートは、貯水用ダムを含む水道施設用の適地を探すために周辺地域を調査し、一之瀬川上流の本河内に貯水用ダムを造るべきだという調査結果を表明した。しかし、近代水道の明らかな必要性と利益にもかかわらず、長崎区の年間予算の7倍以上の30万円と予想される莫大な総工費のため、この計画は反対意見の嵐に見舞われた。長崎近隣の88町のうち、55町の代表が抗議運動を行ったため、計画は長崎市議会に提出する前に取り下げられた。長い政治的争いの末に、水道建設の法案がやっと成立した。鉄管、給水栓や他の機材を輸入するために希望業社を募った。県庁で行われた競争入札には日本内外の4社が参加し、競り勝ったのは、12万5千ドル(洋銀)を提示したアメリカ系のチャイナ・アンド・ジャパン・トレーディング・カンパニー(支那日本貿易商会)であった。その後、長崎居留地の大浦4番地に支店を置く同社は、グラバー園の給水栓を含む機材のすべてをイギリスから輸入した。水道工事が1891(明治24)年3月に完成し、長崎水道は横浜と函館に続く3番目の近代水道として、同年5月から給水を開始した。専用ダムを持つ水道としては日本初のものであった。2017年12月
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EPISODE 58
たった一人のひ孫
長崎市役所に保管されている戸籍によると、トーマス・グラバーの妻ツルは1876(明治9)年9月9日女の子を出産、ハナと名付けた。幼少期を長崎と東京で過ごしたハナは、1897(同30年)1月、ホーム・リンガー商会に勤務する英国人ウォルター・ベネットと結婚。当時、新郎は28歳、新婦はまだ20歳だった。翌年、ウォルターはホーム・リンガー商会仁川(朝鮮)支店の営業責任者となった。その後、彼は独立して「ベネット商会」を旗揚げし、仁川における英国領事も務めた。夫妻の朝鮮滞在は、1938(昭和13)年にハナが世を去るまで続いた。妻に先立たれたウォルターは太平洋戦争勃発直前に英国へ帰ってロンドンで病没した。ウォルターとハナの4人の子供たちは全員仁川で生まれ、現地の外国人居留地にある大邸宅で裕福な生活を送っていたが、学齢に達すると日本やアメリカヘ留学した。長男トーマス・ベネットは、マリア会が経営する長崎東山手の海星学校初等科に入学し、叔父の倉場富三郎が住むグラバー邸から通学した。そして、15歳でオハイオ州デイトンにある、同じマリア会経営の聖マリア大学(現デイトン大学)ヘと進学した。第一次世界大戦中トーマスはパイロットとして米国空軍に仕え、戦後にはウィスコンシン大学を卒業して電気工学技師としてジェネラル・モーターズ社に入社した。ウォルターとハナの4人の子供のうち、トーマス・ベネットだけが1931(昭和6)年に子宝に恵まれたので、現在もアメリカに暮らす長男ロナルドは、日本の近代化に貢献したトーマス・グラバーのたった一人のひ孫である。2018年1月
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EPISODE 59
雨森病院
ウィルソン・ウォーカーの未亡人シャーロットは、1919(大正8)年に上海へ移住し、南山手12番地の自宅とそれに隣接する10番地のクリフ・ハウス・ホテルを売りに出した。この地に新しく小学校を建ててはどうかという案が長崎市当局側から浮上したこともあったが、地元住民の反対にあって実現しなかった。結局、日本人医師2名が家屋とホテルの両方を購入し、「田中・雨森共同病院」とした。雨森医師は以前から長崎市新町で開業し、ドイツ語と英語ができ、フランス人の妻を持つ弟の田中医師は13年間のヨーロッパ留学を経て長崎へ戻っていた。田中・雨森共同病院は、長期滞在者に部屋も貸していたが、それを利用した外国人の中には、1930(昭和5)年に来崎したポーランド人のコルベ神父らがいた。彼らは「無原罪の聖母の騎士」という刊行物を出版するために、以前ホテルだった建物の中に印刷機を持ち込んだ。翌年、本部を本河内に移して修道院を設立した。その後、ポーランドへ帰国したコルベ神父はドイツ秘密警察に逮捕され、アウシュビッツに送られ、妻子ある死刑囚の身代りを申し出て処刑された。かつてホテルであった建物は、1952(昭和27)年三上工作所の工場に改装されたが、1973(同48)年の火事によって焼失。一方、昭和50年代まで雨森病院として市民に親しまれていた旧南山手12番地の洋館は解体されることになり、寄贈を受けた長崎市が旧南山手8番地へ移築。同館は現在、南山手地区町並み保存センターとして公開されている。2018年2月
南山手秘話
EPISODE 60
南山手の誕生
長崎居留地が開設された当初、徳川幕府は外国人の居住エリアを大浦と下り松(現在の松が枝町)に限定したいと考えていたが、風通しのよい山手地区を提供してほしいという領事たちの強い要請に対して、東山手地区を始め、次第に居留地境界の拡大を認めた。しかしながら、開港から2年後の1861(文久元)年になっても、幕府は妙行寺(当時の長崎英国領事館が仮開設していた寺院)の南側の丘陵地帯、つまり現在の南山手、の提供を固く拒んでいた。イギリス領事のジョージ・S・モリソンは、同年4月13日付の書簡で、この問題の解決に目処がついたことをイギリス政府に報告。モリソンはその数日前、長崎奉行に面会し、居留民の健康と快適な暮らしのためにスペースが必要であり、急速に拡大する外国人人口に対応するために既存の居留地があまりにも窮屈であることを訴えていた。彼が過去のように部屋の反対側ではなく、奉行と同じテーブルに座ったのは初めてであった。奉行が幕府と相談しなければならないといつものように答えると、モリソンは「暫定措置」でも良いから即座に決定してほしいと頼み込んだ。その結果、長崎奉行は居留地の境界を金刀比羅(ことひら)神社の下まで延長し、約17ヘクタールに広がる南山手1番地から35番地の区画整理を行うことに合意した。外国人たちは早速、利用可能な区画に対する借地権にめぐって競い合った。1861(文久元)年10月、最も美しい場所で、そして松の老木がそびえ立つ南山手3番地の借地権を確保したのは、若いスコットランド人、トーマス・B・グラバーであった。2018年3月
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EPISODE 61
ナガサキ・ボーリング・クラブ
長崎は日本におけるボーリング発祥の地。最初は1861(文久元)年に広馬場で開設した「インターナショナル・ボーリング・サルーン」だが、ボーリング場はその後、居留地の西洋式ホテルの標準施設となっていた。1873(明治6)年、南山手甲10番地でインペリアル・ホテルを経営していた2人のドイツ人、ヨハネス・ウムラントとハインリッヒ・ショーンネッケは、「ゲルマニア・ボーリング・サルーン」をホテル内に併設した。順風満帆だったが、肺の病気を患っていたショーンネッケは、1881(明治14)年に他界し、その翌日に健康であったはずのウムラントも亡くなり、居留地を震撼させた。死因は不明だが、長年のパートナーであったショーンネッケを失ったことは、ウムラントにとって耐え難いものだったかもしれない。2人は大浦国際墓地に並んで永眠している。その後、南山手甲10番地のホテルとボーリング場はオークションに出され、「ナガサキ・ボーリング・クラブ」として再開。居留地の数少ない社交と娯楽の場として賑わった。経営者のニールス・ルンドバーグ(スウェーデン人)は1903(明治36)年に亡くなると、土地と建物は再びオークションに出され、豪商フレデリック・リンガーが落札した。同年6月4日、40名の会員たちが集まり、「ナガサキ・メンバーズ・ボーリング・クラブ」の発足を祝った。 南山手甲10番地のボーリング場は、太平洋戦争を経て日本人所有者に引きつがれたが、建物はその後取り壊された。跡地は現在、南山手オランダ坂脇の駐車場となっている。2018年4月
南山手秘話
EPISODE 62
昭和10年のガーデン・パーティー
1935(昭和10)月5月、リンガー家や他の長崎の外国人居住者たちは、イギリス国王ジョージ5世の戴冠25周年を盛大に祝った。まずは長崎市大村町(現・万才町)の日本聖公会教会と英国領事館でそれぞれ式典とレセプションを開催し、それから南山手14番地(現在の旧オルト住宅)でガーデン・パーティーを開いた。地元の聖職者ら全員が仙台の宗教総会議に出席しなければならなかったため、この行事を、実際の記念日より1日繰り上げて5月5日に変更しなければならなかった。結果として、長崎が大英帝国で最初の式典を挙げることとなった。長崎英国領事館は、日本人および外国人名士あてに招待状を発送した。フレデリック・リンガーの長男フレデリック・E・E・リンガー夫妻がガーデン・パーティーを主催し、自宅の南山手14番館を会場に提供した。邸宅の居間とベランダだけではスペースが足りず、白いクロスが掛けられた小さなテーブルが前庭の芝生に並び、招待客は四人一組で席に着いて西洋料理に舌鼓を打った。席に座っている日本人客と立ったままで話す倉場富三郎の姿が写真にとられている。トーマス・グラバーと日本人の母親の間に生まれた彼は、経済界のリーダーと異文化間の架け橋として長崎において重要な役割を果たしていた。多くの友人への挨拶のために、芝生中のテーブルを回っている途中のスナップであったと推測される。これは倉場富三郎の気配りと人当たりの良さを覗わせる貴重な写真と言えよう。それは、長崎の泰平な時代を偲ばせる最後の写真の一枚でもある。2018年5月
南山手秘話
EPISODE 63
南山手の残像
1945(昭和20)年8月15日に太平洋戦争が終わると、原爆によって甚大な被害を受けた長崎は、かつての繁栄と国際色が嘘のように消えていた。長崎駅より北の市街地は壊滅状態になっており、市の中心部にある公共の建物は二次火災によって焼失していた。一方、旧長崎外国人居留地の建物は、爆心地から離れていたことと、山や川で守られたことから深刻な被害を免れた。旧グラバー住宅は観光地としての新しい時代を迎えたが、他の南山手の洋風住宅は、ほとんど変わらないまま存在していた。戦後の長崎を訪れたリンガー家の友人は手紙のなかで、南山手の様子を次のように描写している。「長崎にいるときにリンガー住宅をみる機会があった。1931(昭和6)年に長崎までの航海を終えてフレディー(フレデリック・リンガー2世)から乾いた喉に大量のジンを流し込まれたとき以来、そこには立ち寄ることがなかった。南山手の上から下まで、旧外国人居留地のなかを1、2時間歩きまわると、その懐かしい雰囲気に感動した。そこには時間の流れからほとんど影響を受けずに多くの目印が残っていた。 巨大な石垣、急な坂道、街灯、覆っている木の間から垣間みえる威厳のある住宅、それに、正体不明の幽霊がさまよっているような、近代化されず静かで交通量の少ない道路などであった」と。現在、明治期の洋風建築は当初の一割にも満たないが、横浜や神戸に比べて旧長崎外国人居留地の原風景はよく残っている。今後、南山手にたたずむ洋風建築、石畳や煉瓦塀は歴史的風致とともに、国境を越えた友情とロマンスの物語を伝え続けるだろう。2018年6月
南山手秘話
EPISODE 64
旧オルト住宅の噴水
イギリス人商人ウィリアム・オルトは、南山手14番地において、長崎居留地では最も立派な個人住宅を建てた。現在グラバー園に保存されている「旧オルト住宅」である。施工を行ったのは大浦天主堂の建設などで知られる天草の棟梁・小山秀之進。建設は1865(慶応元)年に始まり、完成させるまでにおよそ2年の歳月を要した。外国人建築家によるフィートとインチで表わした平面図には、後から筆で日本式の寸法が書き加えており、言葉と建築様式の違いを超えた共同作業の様子がうかがえる。同住宅は、天草の砂岩でできたベランダの石畳や基礎、石積みの外壁、ベランダを巡るタスカン様式の列柱、正面から突き出た破風造りのポーチや日本瓦で覆われた屋根など、和洋折衷のデザインとなっている。その中で特に目を引くのは、家の前で建設当時から残るイタリア風の噴水である。噴水の起源は、メソポタミア文明だとされている。ローマ神話にも「ユトゥルナ」という噴水・井戸・泉を司る女神がいるので、古くから日常生活の中に噴水が存在していたようだ。ローマの「トレヴィの泉」は代表例だが、噴水は今もイタリアを始めヨーロッパ各地に見られる。 日本で最古とされるのは1861(文久元)年に造られた金沢・兼六園にある噴水である。長崎では、1878(明治11)年版の「長崎諏方御社之図」に描かれた噴水は長崎公園に現存しているが、幕末の古写真にも写る旧オルト住宅前の噴水こそ長崎で最古のものと思われる。ところで、これら初期の噴水は動力ではなく、高低差を利用した位置エネルギーのみで水を噴き上げるのである。2018年7月
南山手秘話
EPISODE 65
忘れられたフランス人医師
フランス人医師レオン・デュリー(Leon Dury)は、徳川幕府が函館に計画していた病院を指導する医師として日本へ派遣された。しかし、幕府の都合により病院建設が中止となったため、彼は長崎在留フランス領事に赴任することになった。1861(文久元)年11月に赴任したデュリーは、大徳寺にフランス領事館を開設し、その後、南山手7番地で新築した住宅に活動の場を移した。1863(文久3)年、パリ外国宣教会のプティジャン神父らを長崎に招き、翌々年に執り行われた大浦天主堂の落成式を主催した。領事を務めるかたわら、デュリーは日本人にフランス語を教え、1865(慶応元)年、大村町の旧長州藩屋敷で開設された「済美館」(旧洋学所)で教鞭をとった。生徒の一人だった松田雅典は、デュリーが食べていた缶詰食品に衝撃を受け、1871(明治4)年、デュリー指導の下、日本初のイワシ油漬の缶詰試作に成功した。松田はその製造法から、缶詰のことを「無気貯蔵」と呼んでいた。長崎におけるフランス領事館の廃止に伴い、レオン・デュリーは京都府の招聘に応じて官立の京都仏学校でフランス語教師となった。生徒に慕われた彼は、京都仏学校が廃止されて東京の開成学校(現東京大学)へ転任することになった際、数十人の生徒が彼に付き従い上京したという。1877(明治10)年にフランスへ帰国した後も、レオン・デュリー医師は日本の発展に注意を払い、生徒たちとのつながりを大切にした。1885年(明治18)、日本での功績により勲四等旭日小綬章を受賞し、1888年(明治21)にはマルセイユの名誉日本領事に任命された。2018年8月
南山手秘話
EPISODE 66
アルシディー・リンガーの離日
グラバー園に保存されている旧オルト住宅(国指定重要文化財)の最後の外国人所有者は、イギリス人豪商フレデリック・リンガーの長男フレディーとその妻アルシディー(旧姓バックランド)である。1940(昭和15)年のフレディーの死去によりアルシディーは一人となったが、使用人たちに日々の生活を支えられながら南山手の自宅に住み続けた。しかし、太平洋戦争が勃発した翌年12月8日の朝、警官が玄関のドアを叩いて彼女を逮捕した。警官は64歳のアルシディーを梅香崎警察署に連行して尋問し、彼女が上海からのラジオ放送を聞いていたとしてスパイ活動の罪で告発し、独房に監禁した。問題のラジオは、当時の長崎市民が普通に使っていたものと同じだった。アルシディーは裁判官の前に一度も立たないまま、すべての容疑で有罪判決を受け、罰金300円の支払いを命じられた。1942(昭和17)年4月に警察署から釈放され、同じように残留していた長崎英国領事夫妻や日本人の妻を持つ年配者など、数名の外国人と共に聖マリア学院の校舎に収容された。同年7月21日、警察はようやく彼女を自宅に帰し、出国のための準備をさせた。急いでまとめた荷物を手に持ったアルシディーは、南山手から波止場に下りる慣れ親しんだ道から振り向くと、リンガー家の屋敷(現在の旧オルト住宅と旧リンガー住宅)は暑い日差しとは対照的な寂しい空き家になっていた。アルシディーはその日の内に長崎を後にし、イギリス人の外交官や民間人を帰国させるために用意された交換船に乗り、横浜港から日本を去った。 2018年9月
南山手秘話
EPISODE 67
三浦環像
昭和24(1949)年ころ、アメリカ進駐軍は戦後直後から接収していた旧グラバー住宅を明け渡して長崎を去った。彼らが遊びで付けていたニックネーム「マダム・バタフライ・ハウス」が日本人の間でも流行り、長崎の観光産業を活性化させるために広く使われるようになった。バスガイドまでも感動のアリア、「ある晴れた日」を歌う勉強をして旧グラバー住宅を訪れる観光客を楽しませたという。昭和36年(1961)6月、日本政府は旧グラバー住宅を重要文化財に指定したが、主な趣旨は日本における最初の木造洋風住宅という建築学的価値に対する評価である。所有者の長崎市は、建物の現状を変えるようなことさえしなければ、自由に展示内容を決めることができた。結果として、「蝶々夫人の家」や「蝶々夫人ゆかりの地」の作り話が史実より重視された。同38年(1963)5月、三浦環の銅像が旧グラバー住宅の真横に設置された。三浦環は、戦前に蝶々夫人の主役を2000回も演じて国際的な名声を得たソプラノ歌手。銅像は、蝶々さんが幼い息子を隣に、父親のピンカートン大尉が間もなく帰ってくるはずの長崎港を指す姿を表現している。同じころ、大浦47番地にあった洋風住宅は取り壊されたが、表の門柱だけが保存され、旧グラバー住宅と旧リンガー住宅の間にある庭園に移された。門柱にはフリーメイソンの定規とコンパスのシンボルが刻まれていた。その後、三浦環像はフリーメイソンの門柱があった上の段に移され、門柱は旧リンガー住宅の横に移されたが、どちらも現在に至って誤解を招き続けている。 2018年10月
南山手秘話
EPISODE 68
隠し部屋は「都市伝説」
1957(昭和32)年、三菱重工が長崎造船所開設100周年を記念して旧グラバー住宅を長崎市に寄贈した。その後、長崎を代表する観光地に成長するが、初めのころは進駐軍が面白半分に付けたニックネーム「マダム・バタフライ・ハウス」や「蝶々夫人ゆかりの地」として紹介され、グラバー家の人々の暮らしや各部屋の使い方についてほとんど分からないままだった。その中、附属屋廊下の天井から入る屋根裏収納庫が特に話題を呼んだ。欧米の住宅によく見る収納のアティックだが、トーマス・グラバーが幕末の志士たちをかくまった「隠し部屋」とされた。気まぐれな推測に過ぎなかったが、隠し部屋は俗称として定着し、坂本龍馬もここに隠れたという奇説にまで発展した。旧グラバー住宅は、1966(昭和41)年から2年間にわたって修復工事が実施された。長崎市が終了後に発行した「旧グラバー住宅修理工事報告書」では、いわゆる隠し部屋について、「当初からのものと判断しかねる資料がある」と明記されている。その資料とは、床板の裏面に職人たちが墨で書いた「倉場」の文字である。つまり、旧グラバー住宅の修復工事中に、屋根裏収納庫は志士たちが活動していた幕末ではなく、1894(明治27)年から「倉場」の姓を使っていた倉場富三郎の時代に増築されたものと分かった。しかし、この専門家の指摘にもかかわらず、隠し部屋は都市伝説として現在に至る。世界遺産に登録された旧グラバー住宅。今後、歴史的根拠のない「ロマン」ではなく、研究に裏付けられた史実に重点を置きたい。 2018年11月
南山手秘話
EPISODE 69
古賀野富子と十六番館
グラバー園出口のそばに「十六番館」という、現在は閉鎖されている観光施設がある。この西洋風建築はもともと南山手ではなく東山手16番地に立っていた。正確な築年は不明だが、1864(元治元)年に借地権を入手した英国領事エイベル・ガウワーが自宅として建設したものと思われる。1879(明治12)年、メソジスト伝道会が東山手16番館を購入し、活水女学校を創設した。その後、米国改革派教会が建物を宣教師住宅として確保したが、やがて、活水女学校が東山手キャンパスの一部に組み入れた。太平洋戦争後、建物は荒廃してほとんど使われなくなってしまったが、解体から救ったのは、元宝塚歌劇のスター、古賀野富子だった。富江村(現在の五島市)生まれの彼女は、第14期生として宝塚歌劇に入団し、1926(昭和元)年に初めて舞台に立った。その後、「嵯峨あきら」と名乗り、喜歌劇「近代三銃士」(1930年)や歌劇「中將姫」(1931年)などに男役で出演して名声を博した。太平洋戦争直後、長崎へ帰っていた古賀野富子は、アメリカ人兵士を相手に「宝塚ダンスホール」を浜の町にオープンした。同ダンスホールは大いに成功し、古賀野富子はその経営者ばかりでなく、進駐軍と地元社会との架け橋として一目置かれる存在となった。1957(昭和32)年、彼女は活水学院が所有していた東山手16番館を購入して旧グラバー住宅の近くに建物を移築し、キリシタン関係資料などを展示する資料館として公開。建物は移設後も「十六番館」と呼ばれ、古賀野富子が1993(平成5)年に他界するまで、観光名所として賑わった。 2018年12月
南山手秘話
EPISODE 70
球技ペタンクの発祥地
ペタンク(pétanque)は、1910年に南フランスで生まれた球技で、名称はプロヴァンスの方言「ピエ・タンケ(両足を揃えて)」に由来する。現代のフランスでも、小さいスペースで気軽にプレーできるスポーツとして多くの人々に親しまれている。手のひら大の金属製のボールを「ビュット」という木製の目標球に向けて投げ合い、より近づけることによって得点を競う。陸上のカーリングとも言われている。 パリ外国宣教会によって発行された一枚の絵はがきから、日本におけるペタンクの発祥地は南山手であると想定される。同絵はがきには「日本の長崎でボール遊びを楽しむ神学生たち」とフランス語と英語で記されており、西洋人宣教師と数名の和服姿の青年たちが木々に囲まれた庭でペタンクに興じる様子が写されている。年代は記されていないが、大正期に大浦天主堂境内で撮影されたものと思われる。 撮影場所については、ペタンクの研究者、小倉義弘氏は次のように述べている。「大正頃の大浦天主堂における境内の土地利用状況は、長崎県庁蔵、宗教法人台帳登載申請書の境内配置図において概ね確認でき、境内配置図には球技などができるスペースの運動場が記載されていることから、大浦天主堂境内の旧羅典神学校の北側敷地での撮影と想定される。」 現在、写真の撮影場所は雑草が生い茂る空き地となっており、当時の面影はない。しかし、神学生たちが以前使っていたバスケットボールのゴールが残っていることから、この場所こそが日本におけるペタンクの発祥地だと特定できそうだ。 2019年1月
南山手秘話
EPISODE 71
南山手の貴婦人、カロリーナ・リンガー
カロリーナ・リンガー(旧姓ガワー)は、1857(安政4)年、ローマで生まれた。父は幕末から明治期にかけて日本で炭鉱開発の監督として活躍したイギリス人土木技師エラズマス・ガワー。伯父は、初期の日英交流に重要な役割を果たした外交官エイベル・ガワーだった。 カロリーナは中国・アモイの商人、エドモンド・パイと若くして結婚したが、間もなく夫に先立たれ、当時長崎の高島炭鉱で勤務していた父の元に来た。父は、現在は南山手レストハウスとして使われている南山手乙27番館に居を構えていた。1883(明治16)年、彼女はこの街で知り合ったフレデリック・リンガーと再婚し、南山手2番館(現在の旧リンガー住宅)に入居した。その後、長男フレディー、長女リーナ、次男シドニーの母となった。 夫が地元商業界で頭角を現すなか、ピアノを得意とするカロリーナは社交界の華として様々なコンサート、記念祭や福祉イベントを企画していた。厳格なカトリック信者だった彼女は、大浦天主堂のミサやその他の行事にも参加した。彼女はやがて、「ナガサキのグランダム(貴婦人)」と呼ばれるようになった。これに関して次のような逸話もある。カロリーナが米国横断鉄道に乗っていたときに、西部のある町のかつぎ人夫の態度の悪さに怒って、「私が誰か分かっているの?私は長崎のリンガー夫人ですよ」と言い放ったそうだ。そのかつぎ人夫は何のことかさっぱり理解出来なかったという。 カロリーナ・リンガーは1924(大正13)年に体調を崩してイギリスへ帰り、67年の生涯を閉じた。
2019年2月
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EPISODE 72
幻の門柱
グラバー園出口の横に現在は使われていない旧入り口の石段がある。その上には、白い御影石の高い門柱と唐破風に曲がった鉄の横げたを持つ持印象的な門が立っている。この門の来歴について説明板も資料もないが、元々大浦7番地のホーム・リンガー商会入り口に立っていたものと思われる。 1861(文久元)年に行われた長崎居留地の区画整理後、イギリス人商人ウィリアム・オルトが長崎港を臨む大浦海岸通りの中心に位置し、居留地最高の立地条件を誇っていた大浦7番地の借地権を確保して二階建て洋風建築を建てた。オルト商会退去後、建物はホテルや中国領事館として使われ、1888(明治21)年10月からホーム・リンガー商会の事務所となった。 1895(明治27)年ごろの大浦海岸通りと軒を並べる洋風建築を捉えた写真を見ると、ホーム・リンガー商会事務所の前に立つ白い御影石の門柱がはっきりと写っている。その後に発行された写真や絵はがきにも同様に門柱の存在が確認できる。 長崎の国際貿易を牽引してきたイギリス人豪商フレデリック・リンガーは1907(明治40)年、英国に一時帰郷中に死去し、ホーム・リンガー商会は息子と孫たちに引き継がれた。太平洋戦争勃発後、大浦7番地の事務所は敵国財産として売却され、終戦まで長崎に本部を置く川南工業の事務所として使われた。1945(昭和20)年9月、建物はアメリカ進駐軍に接収され将校たちのレクリエーション施設に改造されたが、翌々年に火事で焼失してしまった。 建物の前に立っていた門柱がいつごろ南山手へ移設されたかは不明である。
2019年3月
南山手秘話
EPISODE 73
アルミロ・デ・スーザを偲ぶ
アルミロ・デ・スーザ(Almiro C. de Souza)は1880年(明治13年)、ポルトガル人の父と日本人の母の長男として長崎で生まれた。父親のシモン・デ・スーザは、英字新聞の編集者や長崎のアメリカ領事館事務員兼通訳として働いており、島原出身の妻、浜本シトとの間にアルミロを含めて15人の子宝に恵まれた。 アルミロは、1898年(同31年)に東山手の海星学校を卒業すると、弟と共に小売業の「デ・スーザ商会」を長崎居留地に設立したが、語学力を買われた彼はやがて、香港上海銀行に転職した。同銀行の上海本社や漢口支店勤務を経て、1904年(明治37年)に故郷の長崎へ戻り、長崎支店の銀行員に就任。同年に下り松海岸(現在の松が枝町)で竣工した香港上海銀行長崎支店の新館は今も、国指定重要文化財として現存し活用されている。 帰崎後、アルミロはフランス人男性と日本人女性との間で生まれたジャン・ゴルデスと結婚し、大浦天主堂の斜め前に位置する南山手8番地の角に居を構えた。二人の間には8人の子供たちが生まれた。一家の暮らしは順風満帆だったが、アルミロは肺炎を患い、1921年(大正10年)11月1日、妻と子供たちが見守るなかで41年の生涯を閉じた。現在は一対の天使像に守られて坂本国際墓地に永眠している。 南山手8番地の所有者だったヴィクター・ピナテールはその3ヶ月後に他界し、デ・スーザ夫人に土地と建物を譲るという遺言を残した。ピナテールに仕えていた日本人のメイドはそれを争ったが、結局、長年居住していたアルミロ・デ・スーザの遺族が裁判に勝って住み続けることができた。
2019年4月
南山手秘話
EPISODE 74
旧三菱第2ドックハウス
グラバー園の一番高い位置から長崎港を望む建物は、三菱長崎造船所から移築保存された「旧三菱第2ドックハウス」である。 同造船所で初めて造られた鉄製の蒸気船「夕顔」は、三菱第2代社長の岩崎弥之助やトーマス・グラバーが見守るなか、1887年(明治20年)1月に飽之浦の船台から進水した。その後、三菱長崎造船所は拡大しながら新しい設備を備え、やがて東アジア最大の造船所へと成長し、船舶の建造に加え、外国の商船や軍艦の修理も行っていた。また、外国船が造船所に停泊している間の船員用宿泊施設が各ドックに附属して建設された。 長崎港が日清戦争の勝利で前代未聞の繁栄を享受していた1896年(明治29年)、第2ドックの側に建てられたこの建物は、各階はベランダを備え、4部屋の中央に廊下が通る同様の間取りで、外国人居留地で使われている石炭を燃やすタイプの英国式暖炉が寒い冬の各部屋を暖めた。 この建物は、1970年(昭和45年)年に第2ドックが物資置き場を建設するために埋め立てられるまで利用されていた。三菱重工業はその翌々年に第2ドックハウスを長崎市に寄贈し、建物は解体されてグラバー園の高台に移築された。 現在、旧三菱第2ドックハウスは世界遺産関連の展示などに活用されているが、この建物の一番の魅力といえば、長崎港の南は三菱長崎造船所のガントリークレーンが目立つ香焼島から北は浦上の街並みまでを2階のベランダから一望できることであろう。
2019年5月
南山手秘話
EPISODE 75
グラバー住宅三度の危機
トーマス・グラバーは、文久3年(1863年)、南山手の高台に木造平屋建てバンガロー住宅を建設し、庭に生えていた大きな松の木に因んで「IPPONMATSU(一本松)」と名付けた。グラバー住宅は、三度にわたりグラバーの手から離れそうになったことはあまり知られていない。 グラバー商会は明治3年(1870年)、多額の借金を抱えて倒産。トーマス・グラバーは、明治7年(1874年)1月30日、財産整理の一環として住宅と土地の借地権を弟アルフレッドに譲リ、さらにその翌日にオランダ貿易会社へ譲渡した。グラバーの側近であったアイルランド人技師T・J・ウォートルスが五千ドル(洋銀)を融資したことで、再びアルフレッドの名義に戻ったが、その間、同住宅はグラバー家の所有でなかったことになる。 二度目の危機は明治10年(1877年)12月に訪れた。アルフレッドはグラバー住宅を「売るまたは貸す」という広告を長崎の英字新聞に出したが、結局は売らずに所有権を持ち続けた。その後の約27年間は、長崎英国領事やその他の外国人居留者の住まいとなった。 日露戦争の頃、トーマス・グラバーは再び長崎における自宅を手放そうと考えていたようだ。長男の倉場富三郎が東京の父に宛てた、明治38年(1905年)10月19日付の手紙で、フレデリック・リンガーに建物の購入を持ちかけたが、リンガーはすでに南山手14番館(現在の旧オルト住宅)を買っていたので断られたと報告している。結果として、太平洋戦争前に三菱長崎造船所に売却されるまで、倉場富三郎夫妻は同住宅に居を構えてグラバー家とのつながりを堅持した。
2019年6月
南山手秘話
EPISODE 76
フレデリック・リンガーが嫌った編集長
英字新聞ナガサキ・プレスの編集長に抜擢された若いイギリス人ウィルモット・ルイスは、明治35年(1902年)から約2年間を長崎で過ごした。彼が長崎に来たのと同時期、フレデリック・リンガーのひとり娘リナはイギリスでの学校教育を終えて故郷へ帰ってきた。二人は、長崎の社交の場で出会って恋に落ちたが、父親のリンガーはルイスを嫌ってその交際に反旗を翻した。 父と娘の間の緊張は、リナがウィルモットと結婚したいと言い出した時に感情的な分裂へと発展。猛反対を押し切って駆け落ちした二人は、横浜に居を構えて二児の親となった。明治41年(1908年)、ウィルモットがマニラ・タイムズ紙の編集長として雇われると、一家はフィリピンへ住まいを移した。 しかし、大正5年(1916年)にウィルモットとリナは別れ、リナは子供たちを連れて母が暮らす南山手14番館(現在の旧オルト住宅)に戻った。一方、ウィルモットの博識な論説が世界中の新聞に掲載されるようになり、同9年(1920年)、タイムズ紙のワシントン特派員に任命された。アメリカの首都に移り住んだ彼は、家族を捨てて義理の父リンガーの最も暗い予想を現実のものにした。 リナは夫の不倫が原因でイギリス最高裁判所に離婚申請書を提出し、4年後の昭和4年(1929年)に43歳の若さで他界。ウィルモットは離婚後、AP通信創立者の娘と再婚し、翌々年にイギリス政府によってナイトに叙任された。「ウィルモット・H・ルイス卿」として余生を送った彼は、時折南山手に漂う楠の香りや長崎港にひびく霧笛の音を思い出すこともあったかも知れない。
2019年7月
南山手秘話
EPISODE 77
バーフ夫人の無銭旅行
イギリス人サミュエル・バーフと妻のケート・バーフは、1894(明治27)年、サミュエルが公務員として長年働いていた香港から長崎へ移住し、南山手15番地の高台で隠居生活に入った。サミュエルは長期闘病の末、1897(明治30)年8月、南山手の家で亡くなった。享年69歳であった。 その後、未亡人となったケイトは南山手15番地で静かに暮らしていた。しかし、1912(大正元)年、彼女が起こした未払い金の騒動により、その奇妙な行動が注目されることになった。 長崎の英国領事G ・H・フィップスは東京の英国大使に手紙を送り、ケイトが同年の夏、佐賀県唐津の海浜院ホテルに3ヶ月間滞在したが、200円という高額の勘定を支払っていないと報告した。彼女が支払いをせず唐津を黙って去ろうとしたとき、ホテルの主人は駅で彼女を捕まえて宿泊費を請求したが、拒否されたので彼女の手荷物を預かったという。一方、バーフ夫人は、海浜院ホテルを外国人旅行者向けのリゾートとして宣伝することと引き換えに、無料で宿泊させてもらったと反論。しかし、そのような合意の証拠は何もなかった。フィップス領事は、佐賀県の不破彦麿知事に連絡を取り、問題解決のための介入を求めた。不破知事は、手荷物の返却を約束したが、宿泊費が未払いのままである場合、ホテルは法的措置を取らざるを得ないと念を押した。 英国領事館の関連資料はこれで終わっているため、おそらく上海にいるバーフ夫人の息子が借金を肩代わりして返済したと思われる。 ケート・バーフ夫人は、1922(大正11)年に亡くなり、夫と共に坂本国際墓地に葬られた。
2019年8月
南山手秘話
EPISODE 78
旧スティール・アカデミー
旧スティール・アカデミー(記念学校)は、東山手9番地(現在は海星学園の一部)から旧オルト住宅の正面奥に移築された2階建て洋風校舎である。 東山手9番地は、1864(元治元)年からイギリス領事館の所在地だったが、イギリス政府は1886(明治19)年に男子校の開設を計画していた米国改革派教会に借地権を譲った。アメリカ人宣教師へンリー・スタウトの設計による校舎は領事館の跡地に建てられた。翌年9月に開校した学校は、早世した息子を惜しんでこの学校の建設に大金を寄付した宣教師W.H.スティールにちなんで「スティール・アカデミー」(日本名「東山学院」)と名付けられた。数か月のうちに百人以上もの生徒がここに学びに来るようになった。また、学校運営費の一部を確保するために洗濯屋も営業していた。 東山学院は1932(昭和7)年に閉校して東京の明治学院と合併した。建物はその後、長崎のカトリック教区運営の「東陵中学校」として利用され、1952(同27)年には神言修道会に移管され、長崎南山学園として再スタートを切った。南山学園は間もなく上野町の新校舎に移転し、この建物はマリア会の神父たちが東山手で運営していた海星学園の校舎として使われるようになった。 1972(昭和47)年9月、老朽していた建物は解体され、2年後のオープンに間に合うようにグラバー園に移築された。現在は写真展示の他、この建物の元の役目にふさわしい講演やその他の教育イベントを行う会場にもなっているが、東山手時代と違い、建物は長崎港に裏側を向けるように立っている。
2019年9月
南山手秘話
EPISODE 79
川南工業と旧オルト住宅
グラバー園で現地保存されている国指定重要文化財「旧オルト住宅」は、日本最古の石造り住宅として、幕末の香りと優美な和洋折衷文化を今に伝えている。2000坪におよぶ広い敷地は、家と庭だけでなく、奥の茂みや、今では一般道路になっている前方の長い入り口などを含む。長崎における最も豪華な個人住宅と言えよう。 1903(明治36)年からリンガー家の所有となった同住宅は、フレデリック・リンガーの長男フレディーとその妻アルシディと一人娘の住まいとなった。1940(昭和15)年にフレディーは病気に倒れて死去したが、アルシディは翌年12月8日の太平洋戦争勃発の日までここから動こうとしなかった。警察に拘留された64歳の彼女は、横浜から出航する交換船で本国に送還された。 香焼島で造船所を運営していた川南工業は、1943(昭和18)年に旧オルト住宅の土地と建物を購入したが、その取引の経緯はいまだに不明。1945(同20)年9月に同住宅を接収したアメリカ進駐軍が調査を行い、リンガー家の家財や個人所有物のリストを作成した。戦時中に敵国財産として一方的に売却された他の外国人の資産と同様に、返還する規則が適応されると考えていたようだ。上記のリストには、銀食器から冷蔵庫、卓球台や電動ヘアドライヤーまでの4千円相当の所持品が記録されており、その多くが「原子爆弾投下後行方不明」とされている。 進駐軍が長崎を去った後、土地と建物は何らかの理由でリンガー家ではなく川南工業に変換され、1970(昭和45)年、長崎市によって購入されるまでアパートとして使われた。
2019年10月
南山手秘話
EPISODE 80
捕鯨船の砲手
ノルウェイ生まれのモルテン・ペデルセンは、1894(明治27)年ごろから朝鮮半島沿岸においてロシアの捕鯨船ジョージー号の砲手として活躍。同船は、船首に取り付けた捕鯨砲を特徴とする「ノルウェイ式捕鯨」の専用船であった。冬の間に捕獲されたクジラは、鯨肉の需要が尽きない長崎の市場に牽引され、解体せずにそのまま売られていた。 1896(明治29)年冬の捕鯨期間後、ジョージー号は小菅修船所のスリップドックでペンキの塗り直しのために陸揚げされた。英字新聞の編集者はその様子について次のように述べている。「船首には、釣り線が巻かれた鉄板の斜面の上に妙な形の捕鯨砲が回転台に乗せられている。槍の先端には爆弾が仕掛けられており、クジラに刺さるとその体内に槍の破片が散らかるようにできている。」 翌年の新聞には、ロシアの船団が1月から5月にかけて74頭のクジラを捕獲し、その胴体のすべてが長崎で売られ、合計で約1,390トンの鯨肉が地元の市場に出回ったことが報告された。 1899(同32)年、ペデルセンは、ノルウェイ式捕鯨を導入した日本遠洋漁業会社に砲手として雇われ、家族とともに長崎に移り住み南山手8番地に居を構えた。長崎滞在中、子供たちは居留地のミッション・スクールに通った。 その後、日本遠洋漁業会社は、最新鋭の捕鯨船をノルウェイの造船所に発注し、日本への帰航にペデルセンや他のノルウェイ人従業員を起用した。日本の近代捕鯨に貢献したモルテン・ペデルセンはその航海中に病死し、悲しみにくれた家族はやがてノルウェイへ帰国した。
2019年11月
南山手秘話
EPISODE 81
戦後の南山手甲10番地手
オランダ坂下に位置する南山手甲10番地は明治初期から、西洋居酒屋やホテルの所在地だったが、1873(明治6)年、「ゲルマニア・ボウリング・サルーン」がこの地に開設された。ドイツ人経営者が1881(同14)年に死亡すると、施設は「ナガサキ・ボウリング・クラブ」として生まれ変わり、数少ない居留地の娯楽施設として繁盛していった。 日露戦争が勃発した1904(明治37)年、経営難に陥いたボーリング場は競売にかけられ、イギリス人豪商フレデリック・リンガーに土地と建物が落札した。その後、ナガサキ・ボウリング・クラブは、1930(昭和5)年ごろまで経営を続けた。 南山手甲10番地の所有権はフレデリック・リンガーの息子たちに受け継がれた。長男フレディは1940(同15)年に死亡。次男シドニーは太平戦争勃発直前に上海へ逃れ、苦難に満ちた10年間後にやっと長崎へ戻ることができた。その後、シドニーは実家の南山手2番館(現・旧リンガー住宅)で過ごし、戦時中に敵国財産として没取されていた財産を取り戻す手続きをとった。 戦地からの引揚者や身寄りのない人々に不法占拠されていた南山手甲10番地の建物について、シドニーは次のようにイギリス政府代表に訴えた。「屋根は修理が必要ですし、建物の塗装を怠ったために外壁の板の多くが腐敗しています。今では、150人ほどの人間が建物に滞在していますので、修理はもちろん効率的に行うことができません」と。シドニー・リンガーによって売却された南山手甲10番地は更地にされ、現在は駐車場として使われている。
2019年12月
南山手秘話
EPISODE 82
南山手乙27番地の秘話
イタリア生まれのイギリス人技師、エラスムス・ガウワーは、1867(慶応3)年に徳川幕府に雇われ、北海道や佐渡島の鉱山開発にあたらされた。弟のエイベル・ガウワーはイギリスの外交官で、長崎などの領事を務めた。 エラスムスは、佐渡で出会った日本人女性、志保井ウタとの間に2人の息子が生まれ、1876(明治9)年、家族と共に来崎。元々あった高島炭坑の立坑が浸水したため、隣接する双子島に新しい立坑の掘削を監督するためであった。彼はこの機会に港を見下ろす南山手乙27番地の石造り洋風住宅に居を構えた。 長崎県が1881(明治14)年に行った外国人人口調査の資料には、南山手乙27番地に「エラスムス・ガウワーと女性」が住んでいたことが記されている。この情報は日本語で編集されており、外国人の名前しか書かれていないため、人々の関係性や日本人家族の名前を判断することは困難である。しかし、ここで「女性」と記されている人物は、エラスムスと同居していた志保井ウタを指すと考えて差し支えないだろう。 翌々年の人口調査ではエラスムスの名前が消えており、「女性」だけが南山手乙27番地に住んでいる。このことから、彼は長崎を突然に引き上げて帰国し、志保井ウタはまさしく蝶々夫人のように、子供たちとともに南山手に置き去りにされていたと思われる。 その後、エラスムスとウタの長男、志保井利夫は出世し、北見工業大学教授とて歴史にその名を刻む。一方、南山手乙27番地の住宅は存続し、現在は「南山手レストハウス」として公開されている。
2020年1月
南山手秘話
EPISODE 83
謎のハナ・グラバー・ベネット
長崎市役所に保存されている戸籍によると、トーマス・グラバーの娘ハナは、1876(明治9)年8月8日に淡路谷ツルの長女として生まれている。戸籍が作成されたのは、彼女が17才だった1894(明治27)年のことで、家族と一緒に東京から長崎へ戻り、日本国籍を取得しようとしていたときである。戸籍に記載された住所は長崎市恵美須町33番地となっているが、これはグラバー家とは関係がなく、長崎の老舗「松尾屋」の所在地だ。ハナの名前はイギリス領事館の出生録やその他の公式記録に載っておらず、日本や外国の学校に通ったという痕跡も見当たらない。彼女の幼女期はまさになぞに包まれたままである。 新聞の船舶情報をたどると、彼女は1893(明治26)年2月に父親と一緒に東京から来崎し、一旦東京へ戻るものの、同年12月に再び長崎に来ていることが分かる。このとき、家族共々南山手のグラバー邸に落ち着いたようだ。 1897(明治30)年1月、ハナはホーム・リンガー商会の仁川(朝鮮)支店長を務めていたイギリス人ウォルター・ベネットと結婚し、彼に同行して仁川へ引っ越した。その後、彼女は4人の子供の母となり、一家は仁川に住み続けた。夫のベネット氏は仁川の外国人租界における主要な商人とイギリス領事代理として活躍した。大正4(1915)年ごろ、一家は第一次世界大戦中に閉鎖された仁川イギリス領事館の豪邸を譲り受けて入居した。 ハナは1938(昭和13)年6月12日に他界し、仁川外国人墓地に埋葬された。享年61。墓石に刻まれた生年は1873年となっており、戸籍と一致しないのである。
2020年2月
南山手秘話
EPISODE 84
大浦天主堂のステンドグラス
大浦天主堂内には、正面祭壇奥に「十字架のキリスト」と題するステンドグラスの窓が掲げられている。元々は、1865(慶應元)年、天主堂を設計したフューレ神父の故郷であるフランスのマン市のカルメル修道院から、天主堂の建立を記念して寄贈されたものである。十字架上のキリストとその右に立つ聖母マリア、左には使徒ヨハネを描いている。 大浦天主堂は、居留地の外国人住民および日本人信者の信仰の場として南山手の丘にたたずみ続け、1933(昭和8)年、日本洋風建築の初期を飾る代表的な建物として国宝に指定された。建物が増築や修復を繰り返す中、正面祭壇奥のステンドグラスは祈りをささげる人々にその鮮やかな光を注ぎ続けた。 1945(昭和20)年8月9日の原爆により、天主堂の屋根、正面大門扉やその他の部分に甚大な被害が及ばされ、正面祭壇奥のステンドグラスも粉々に破壊されてしまった。 戦後の混乱を経て、カトリック長崎大司教区は1951(昭和26)年に大浦天主堂の修復工事に着手し、フランスの業者に正面祭壇奥のステンドグラスのレプリカを発注。工事終了後の1953(昭和28)年3月、大浦天主堂は改めて国宝に再指定され注目を浴びた。 しかし、観光客がミサの最中に見物に入るなど、大浦天主堂内での典礼の進行に支障をきたすようになった。カトリック長崎大司教区は、1966(昭和41)年、大浦天主堂を一般に公開し、さらに、1975(昭和50)年、隣接する土地に新たに大浦教会を建設した。その後、大浦天主堂は信者が集う町教会から抜け殻の有料観光施設に変身する。
2020年3月
南山手秘話
EPISODE 85
マイケル・リンガーの悲しみ
イギリス人豪商フレデリック・リンガーの次男シドニーは、1913(大正2)年にアイリーン・ムーアと結婚して実家の南山手2番館(現在の旧リンガー住宅)に入居した。同年と1916(大正5)年にそれぞれ、長男マイケルと次男ヴァーニャの親となった。
マイケルとヴァーニャは少年時代を長崎で過ごした後、イギリスの名門学校マルバーン・カレッジにおいて伝統的な教育を受けた。卒業後、2人とも日本へ戻り、ホーム・リンガー商会の後継者として新しい生活を始めた。
しかし、太平洋戦争の暗い影が忍びよる1940(昭和15)年、兄弟は突然スパイ容疑で拘留された。釈放後、2人は長崎を離れて中国へ渡り、マイケルは諜報将校、ヴァーニャはパンジャブ大隊の中尉として英国インド軍に入隊。戦時中にヴァーニヤは戦死。一方、マイケルは日本軍に捕まえられ、終戦までインドネシアの捕虜収容所で通訳や捕虜代表として働いた。日本で育つ間に身につけた語学力と文化的な共感により無事にこの試練を乗り越えられた。戦後に解放されてから初めて弟の死を知ったのであった。
当時、マイケル・リンガーは少佐の階級にまで上り詰めていた。終戦の翌年に東京で行われた極東国際軍事裁判(東京裁判)に招かれて証言台にたったが、50ページに及ぶ彼の証言録には恨みや憎しみがまったく感じられない。その後、イギリスに戻って弟ヴァーニャの未亡人と結婚し、酪農場を経営しながらヴァーニャの遺児2人を育てた。1978(昭和53)年に64歳でこの世を去るまで、生まれ故郷の長崎に戻ることがなかった。
2020年4月
南山手秘話
EPISODE 86
マリア園の昨今
南山手甲1番地の大浦天主堂は、パリ外国宣教会のフランス人神父の指導のもと、1864(元治元)年12月に完成し、翌年2月に献堂式が行われた。1873(明治6)年の明治政府によるキリスト教禁教令廃止を受けて、大浦天主堂のプティジャン神父らは神学校設立を計画した。1875(明治8)年に完成した「ラテン神学校」の建物は、国指定重要文化財として現存している。
ラテン神学校は、1926(大正15)年に浦上神学校ができるまで、校舎兼宿舎として使用されたが、一般の子供たちではなく、カトリック司祭になりたいという日本人神学生のみが入学できる施設だった。長崎居留地に開設された最初のカトリック系ミッションスクールは、男子校の海星学校と女子校の聖心女学校である。
1880(明治13)年ごろから長崎で活動していた「ショファイユの幼きイエズス修道会」のフランス人修道女たちは、1891(明治24)年、日本人も外国人も入学できる「聖心女学校」を大浦5番地(現日本聖公会長崎聖三一教会所在地)に開設した。聖心女学校は、1898(同31)年、南山手町16番地に建てられたロマネスク様式赤煉瓦造りの新しい建物に移転した。同学校は、1941(昭和16)年の太平洋戦争勃発を機に、上野町の常清女学校と合併した。戦後にアメリカ進駐軍の宿舎として利用された建物は、修道会に返還され、1946(昭和21)年に「マリア園」と名称を変更して児童養護施設として再出発をした。
マリア園は最近、建物の売却と施設の移転を発表。東京の開発大手が建物を買収し、富裕層向けのホテルに改造するという。
2020年5月
南山手秘話
EPISODE 87
ヨルダン氏の墓碑
デンマークの首都コペンハーゲンで生まれたオーエ・ルートヴィヒ・ヨルダンは、1882(明治15)年に大北電信会社の香港支局に技師として就任し、恋人のカロリーヌをデンマークから招き結婚した。1891(明治24)年、彼はアモイや上海を経て長崎への転属になり、妻と幼い息子3人を連れて来崎。一家は、梅香崎2番地にあった大北電信会社長崎支局公舎の2階を経て、南山手8番地および4番地の洋館に住まいを移した。
バイオリンとピアノの熟練した奏者であったヨルダン夫妻は、居留地で開催されるパーティーや舞踏会で演奏するだけでなく、楽器や歌の才能を持つ居留者たちと日本人生徒を集めてその組織化を推進し、長崎交響楽団の前身である「ナガサキ・ミュージック・ソサエティ」(長崎音楽協会)を創設した。
電気工学の専門家だったオーエ・ヨルダンは、海底ケーブルの架設など、電気通信技術の開発者として知られていた。日本政府は日本の技術発展に対する彼の功績を称え、勲六等瑞宝章(1902年)、勲四等瑞宝章(1908年)、そして勲三等旭日重光章(1918年)を授与している。
最後の勲章を授かった頃、ヨルダン氏は病床に臥し、長い闘病の末1918(大正7)年7月13日に帰らぬ人となった。享年58。南山手4番地の自宅で執り行われた葬儀には、長崎県知事や長崎市長など、数多い友人たちが参列した。
カロリーヌ・ヨルダンは、出費を惜しまず、デンマークから大きな自然石の墓碑を取り寄せて坂本国際墓地に設置。この墓碑は今もなお同墓地にたたずみ、ヨルダン夫人の想いをささやき続けている。
2020年6月
南山手秘話
EPISODE 88
グラバー図譜
トーマス・グラバーの長男倉場富三郎は1912(明治45)年ごろから、長崎の画家を雇って魚類図譜の作成に取り組んだ。完成まで21年の歳月を要した同図譜は、上質紙に極めて緻密に描かれた823枚の水彩画からなる集大成である。
1941(昭和16)年春のある日、日本民族学会創始者で魚類学を研究していた渋沢敬三は、倉場富三郎の魚類図譜を閲覧するために南山手9番地の倉場宅を訪ねた。渋沢は、その日の午後のことを次のように書き残している。
「倉場さんのお宅に参上したのは午後の1時半頃だったと思うが、ようこそ来られたと早速図譜を大きな書架から順次持ち出された。(略)自分は倉場さんが一冊ずつ運ばれる図譜を、非常な喜びで一枚一枚くりひろげては細かく拝見し、時には方言中興味あるものを写し取ったりしたために、意外に時間がかかり、たしか全部見終わったのに3時間半はたっぷりかかったのであろう。倉場さんはさも嬉しそうに一冊ずつ書架から出し入れされ、時に質問に答えられ楽しそうであったが、その間手持無沙汰で迷惑だったのは、倉場令夫人と一緒に来られた私の友人たちであったろう。全部拝見してようやくお心づくしのお茶とおいしいキャナッペを頂戴して、お礼を述べ辞去した時は、倉場さんのお宅から一眼に見おろす長崎港はすでに夕方の日射しで色どられていた。」
現在、「日本西部及び南部魚類図譜」と題され、俗に「グラバー図譜」と呼ばれる写生図の一大コレクションは、日本四大魚譜の一つに数えられ、長崎大学附属図書館に保存されている。
2020年7月
南山手秘話
EPISODE 89
三浦環と旧オルト住宅
三浦環は、夫のイギリス留学に同行した際に指揮者ヘンリー・ウッドに出会い、ソプラノ歌手としての才能が認められた。1915(大正4)年、ジャコモ・プッチーニ作曲のオペラ『マダム・バタフライ』で蝶々役に抜擢され、以降太平洋戦争前に引退するまで2000回もこの役を演じ世界的な名声を博した。
1922(大正11)年6月、医者の夫と離婚していた三浦環は、ヨーロッパにおける長期公演を終えて一時掃国し、恋人と噂されたイタリア人ピアニストのルド・フランケッティらとオペラ『マダム・バタフライ』の舞台である長崎を訪れた。来崎の目的はリサイタルを開くためであったが、彼女はオペラ関連の場所も見たいと希望し、長崎の郷土史家 武藤長蔵に案内され南山手14番館(現・旧オルト住宅)を訪問した。オペラの一場面となる長崎アメリカ領事館が昔ここに置かれていたからである。
小説『マダム・バタフライ』の原作者であるジョン・ルーサー・ロングの姉ジェニー・コレル夫人は、たまたま同時期に長崎に来ていた。奇遇が重なり息子のI・C・コレル氏は、オペラに登場する役柄でもあるアメリカ領事として長崎に赴任していた。一行は、南山手14番館に足を運び、同邸宅の前で左の写真を撮った。(左から)武藤長蔵、フランケッティ、三浦環、I・C・コレル夫人(後ろの女性)、ジェニー・コレル夫人である。
長崎来航から3年後、アルド・フランケッティは、『ナミコさん』と題する自作の悲劇オペラをシカゴで発表し、三浦環が主役を務めるのであった。
2020年8月
南山手秘話
EPISODE 90
トーマス・グラバーの大砲
平成27(2015)年、旧グラバー住宅を含む23の構成施設からなる「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の世界遺産登録が決定した。「産業施設」とは言えない旧グラバー住宅がリストに加わった理由については、現存する日本最古の洋風建築であるとともに、この建物を自宅として建てたトーマス・グラバーが炭坑や造船など、近代産業の日本への導入に深く関わったことが挙げられる。しかし奇妙なことに、ユネスコに登録されている構成施設の正式名称には日本語と英語で違いがある。日本語では「旧グラバー住宅」だが、英語では「Former Glover House and Office」、つまり「旧グラバー住宅と事務所」となっている。 グラバー商会の事務所は大浦海岸通りに堂々とたたずんでいた。なお、日本人客を自宅で接待したとしても、グラバーが自宅を「事務所」として使った証拠はどこにもない。南山手のグラバー邸前に設置された大砲を捉えた写真があり、いかにもそこで武器を陳列していたように見える。しかし、日米および日英修好通商条約の第三条では、「軍用の諸物は日本役所の外へ売るべからず」と明記されており、武器の密売が原則として禁止されている最中で、日本人に売るために自宅前に置いたものとは考えにくい。大砲を目撃した松江藩の桃節山は次のように日記に記している。「其前には台場共を相構へ鉄砲拾挺余備へ居れり、しかし此台場之容子を見るに、左まての要害とも思はれず、もしくは是も一ツ之なぐさみなる乎」。つまり、大砲は商品ではなく、トーマス・グラバーの財力を顕示する装飾的なものだった。
2020年9月
南山手秘話
EPISODE 91
シドニーとアイリーンの結婚
シドニー・アーサー・リンガーは、イギリス人豪商フレデリック・リンガーの次男として、1891(明治24)年に長崎で生まれた。兄フレディーと姉リーナと共に長崎で幼児期を過ごした彼は、イギリスの名門寄宿学校で学び、1909(明治42)年に日本へ戻って家業を継ぐためにホーム・リンガー商会に就職した。 当時、同商会は長崎の経済発展の原動力となっており、数十社の保険会社、銀行や外国系船会社の代理店として機能していた。その他、英字新聞の発行、輸入灯油の貯蔵、また最新の技術を駆使した捕鯨とトロール漁業などの事業を大きく展開していた。
1913(大正2)年4月3日、シドニーはホーム・リンガー商会の幹部職員として勤務していたP・J・バックランドの姪アイリーン・ムーアと長崎で結婚した。英国領事館と東山手の英国教会堂における婚礼後、参列者は引き続き南山手33番地(現・プール坂南側の空き地)のバックランド邸で盛大な披露宴に参加した。その中には、長崎県知事の李家隆介夫妻、長崎市長北川信従、各国領事や経済界を代表する多くの日本人と外国人の友人たちがいた。ホーム・リンガー商会の長崎における重要な役割を示す顔ぶれであった。
披露宴終了後、ハネムーンに出発するシドニーとアイリーンが乗る筑後丸が出航する際に、参列者たちは南山手33番地のバックランド宅の庭から船の甲板にまで聞こえる祝いの歓声を上げたという。 その後、シドニーとアイリーンは長崎港を見下ろす南山手2番地の邸宅(現・旧リンガー住宅)に居を構え、長男マイケルと次男ヴァーニャを授かった。
2020年10月
南山手秘話
EPISODE 92
ジョン・フィンドレーと自動車
明治末期、雲仙と小浜は避暑地として広く知られるようになっていた。夏になると、上海、マニラや香港などから暑さを逃れるために、長崎港に到着した裕福な欧米人の家族連れが茂木まで人力車で行き、茂木から小浜まで蒸気船で橘湾を渡るのが習わしとなった。
1911(明治44)年、長崎県は県営温泉(うんぜん)公園を開設し、ゴルフ場など様々な施設の建設に着手した。 この年、もうひとつの特筆すべき出来事があった。小浜の海岸通りに自動車が初めて出現したのである。中国の漢口で商社を経営していたイギリス人ジョン・フィンドレーが米国製の自動車を持ち込み、友人2名と日本人のガイドと運転手を伴って、同年11月16日、800kmに及ぶ九州周遊旅行に出発した。英字新聞に掲載されたレポートで、フィンドレーは次のように報告している。
「千々石と愛津を経由して小浜から諫早まで、すべてが順風満帆だった。道幅はほぼ共通して4〜5メートル。たくさんの馬や牛、馬車を追い越さなければならないが、思いやって減速するか場合によっては完全に停止することで、我々にも地元の人々にもトラブルになることはまったくなかった。」
自動車が雲仙への危険な道を安全に通り抜けることができるようになるのは、あと数年先のことであった。しかし、ジョン・フィンドレーの冒険は、長崎県における車社会化という新たな時代の幕開けとなった。 晩年、南山手13番地に居住していたジョン・フィンドレーは、1920(大正9)年に病気を患って帰らぬ人となった。享年64。現在は長崎市の坂本国際墓地に永眠している。
2020年11月
南山手秘話
EPISODE 93
中野ワカを巡って
1899(明治32)年に倉場富三郎と結婚した中野ワカは、横浜のイギリス人商人ジェームズ・ウォルターと日本人女性中野エイの次女であった。ウォルターは若くして横浜の商社に入社し、40年余にわたって生糸貿易に従事し業績拡大に貢献していた。日本語に長けていた彼は、日本人から「ワタリさん」と呼ばれて親しまれたという。 ウォルターと中野エイとの間には、1875(明治8)年に誕生したワカを含む3人の子供はいたが、1887(明治20)年2月、彼は家族を捨ててアメリカ人女性ハリエット・ウィンと結婚した。これを機に、ウォルターはまだ12歳だったワカの面倒を見て欲しいと友人のトーマス・グラバーに依頼した。その後、ワカは、東京市芝公園にあったグラバーの屋敷から東洋英和女学校に通い、やがてトーマス・グラバーの妻・淡路屋ツルの正式な養女となった。 今まで、中野エイの死後にジェームズ・ウォルターが再婚したとされてきたが、倉場富三郎が父親に当てた1909(明治42)年の手紙から、ウォルターが同年2月に亡くなった後もエイが生きていたことが最近判明した。手紙によると、エイの長男(ワカの兄)中野倉三郎はウォルターの未亡人にお金を要求したので、倉場富三郎が代わりにエイに月15円の生活費を送金する約束をした。中野エイのその後の消息は不明である。 似通った境遇を持っていた富三郎とワカは、同じ1909(明治42)年に南山手3番地の一本松邸(現在の旧グラバー住宅)に住むようになった。子宝には恵まれなかっが、死が二人を分かつまで寄り添い続けるのであった。
2020年12月
南山手秘話
EPISODE 94
ブラックバーン家の悲劇
江戸時代に出島へ派遣された「蘭館医」は歴史書によく記憶されているが、明治時代に来崎して地域医療の発展に貢献した外国人医師たちはほとんど忘れられている。 その一人は、イギリス人の医師、ハーバート・ブラックバーンである。 香港で活動していたブラックバーン医師は、1892(明治25)年6月に来崎し、長崎医学校の講師に就任し、妻のエミリーと共に南山手8番地の住宅に入居した。南山手8番地は、大浦天主堂の正面から南に伸びる大きな三角形の区画であり、長崎港を見下ろす数軒の洋風住宅がたたずんでいた。ブラックバーン夫妻の長女エニッドと長男のスタンレーは、それぞれ1893(明治26)年1月と翌年9月に南山手の家で産声をあげた。 1894(明治27)年3月、ブラックバーン医師は、イギリス人であるにもかかわらず、駐長崎アメリカ副領事に任命され、ウィリアム・アバクロンビー領事が長崎を離れている間、南山手14番地(現在の旧オルト住宅)の領事館で業務にあたった。 ブラックバーン一家は長崎で幸せな日々を送っていたが、妻のエミリーは1895(明治28)年に急病を患い、同年3月3日、南山手の自宅で夫と2人の幼い子供たちが見守る中で息を引き取った。33歳の若さだった。その後、多くの友人たちが葬儀に参列し、遺体は坂本国際墓地に埋葬された。同年10月、ブラックバーン医師は子供たちと一緒にロンドン行きの蒸気船に乗って帰国した。 2019(令和元)年4月、子孫のポール・ムンロー・フォーレさん夫妻は、124年ぶりにエミリー・ブラックバーンの墓前に祈りを捧げた。
2021年1月
南山手秘話
EPISODE 95
エドワード・パードン夫妻の物語
1897(明治30)年9月、フレデリック・リンガーは、週2回発行されていた英字新聞『ライジング・サン・アンド・ナガサキ・エクスプレス』と『ナガサキ・シッピング.リスト』の両社を買収し、『ナガサキ・プレス』と呼ばれる日刊の英字新聞を創刊した。印刷所は大浦20番地のホーム・リンガー商会所有地に開設された。当時、長崎は日清戦争後の好景気により空前の賑わいをみせ、多くの外国人が出入りしていた。
1904(明治37)年、イギリス人のエドワード・パードンが活版印刷の過程で重要な役割を果たす植字工として雇われ、妻エヴァと共に来崎した。その後、彼は『ナガサキ・プレス』の編集者に昇格し、印刷所の業務を日本人の助手に任せ、長崎における出来事の取材や記事の執筆など、編集作業に専念した。社交的なパードン夫妻はまた、外国人コミュニティでムードメーカーを務め、さまざまな社交イベントで中心的な役割を果たした。 第一次世界大戦中、エヴァ・パードンは大英帝国女性愛国同盟と呼ばれる組織の支部を長崎に設立し、資金を集めるためのパーティー、スポーツ大会やその他の募金活動を企画した。戦後、彼女はその功績に対して名誉ある賞をイギリス国王ジョージ5世から授った。パードン家は挫折も経験。1918(大正7)年の記事の中で日本政府の方針を批判したエドワード・パードンは、新聞紙法の違反で告発され、編集者のポストから追われる羽目になった。その後、南山手13番地に住み続けたが、1933(昭和8)年、パードン夫妻は多くの友人たちに惜しまれながら日本を後にした。
2021年2月
南山手秘話
EPISODE 96
初期の私設電話回線
スコットランド出身のジョン・C・スミスは、幕末の早い時期にグラバー商会に入社するために来崎し、1870(明治3)年からフレデリック・リンガーのパートナーとしてホーム・リンガー商会に加わった。その後、同じスコットランド出身の女性と結婚して南山手9番地の住宅に居を構えた。長崎におけるビジネス・リーダーのスミスは、居留地社会の様々な組織に積極的に参加し、ナガサキ・クラブの管財人や駐長崎デンマーク領事を務めた。南山手9番地のスミス邸は、初期の私設電話回線架設にも関係している。1886(明治19)年9月、フレデリック・リンガーはイギリス領事を通して長崎県知事に大浦12番地のホーム・リンガー商会事務所と下り松にあった三菱炭坑事務所を繋ぐ私設電話回線の架設許可を申請した。長崎県は電線や電柱の設置場所の詳細を求めたので、リンガーは回線を繋ぐために必要な6つの電柱と2つの建物への留め金の予定地を表示した。電柱の設置場所は、大浦12番地のホーム・リンガー商会敷地内、南山手11番地のベル・ビュー・ホテル敷地内、南山手9番地のジョン・C・スミス邸敷地内、南山手5番地のロシア領事館外と三菱炭坑事務所。留め金の設置場所は、下り松42番地の居酒屋の壁と南山手甲10番地のボーリング・クラブの壁であった。ホーム・リンガー商会が出資して負担した工事は明治20年(1887)5月に完成した。長崎市において公設電話が開通したのは、その12年後のことだった。 ジョン・C・スミスは、明治33(1900)年5月、スコットランドの故郷に帰り、1920(大正9)年に他界した。
2021年3月
南山手秘話
EPISODE 97
写真の真相
1897(明治30)年、トーマス・グラバーと淡路屋ツルの間に生まれた長女ハナは、イギリス人のウォルター・ベネットと結婚した。ベネットは結婚当時、ホーム・リンガー商会の仁川支店を任せられていた。二人は朝鮮へ移住し、ハナは10月にトーマス・グラバーの初孫となる長男トーマス(テッド)を出産した。
翌年、ハナは8ヶ月になった赤ちゃんを両親が住む東京に連れた。喜んだツルは東京のスタジオで写真を撮ってもらった。楠戸義昭著『もうひとりの蝶々夫人―長崎グラバー邸の女主人ツル』やその他の記述では、この写真に映る赤ちゃんは倉場富三郎であり、ツルが富三郎の実母を証明するものとして紹介されている。しかし、長崎歴史文化博物館蔵に保管されている実物を見ると、ハナは写真の裏面に「テッド」と「1898年6月撮影」の文字を万年筆で記入していることが分かる。つまり、これはツルと初孫テッドとの貴重なツーショットである。
胃癌を患っていたツルは、1899(明治32)年3月23日に帰らぬ人となった。享年48。妻を亡くした当日、トーマス・グラバーは、芝公園の自宅から三菱第三代社長の岩崎久弥に手紙を送り、次のようにツルの死を急報した。
「敬愛なる男爵殿。妻が今朝4時15分に他界しました。長与先生と大橋先生が立ち会われました。とても静かな最期でした。遺体は荼毘に付し、長崎にもってゆくつもりです。さしあたってツルの妹と一緒に葬ります。もう一人[グラバー自身]が亡くなったときも長崎で埋葬され、そのよき伴侶とともに眠ることになるでしょう。敬具。」
2021年4月
南山手秘話
EPISODE 98
ヴァーニャ・リンガーの運命
南山手2番地の邸宅(現在の旧リンガー住宅)に住んでいたシドニーとアイリーン・リンガー夫妻は、1913(大正2)年に長男のマイケル、また、1916(同5)年に次男のヴァーニャを授かった。子供時代を長崎で過ごした兄弟は、イギリスの名門学校マルバーン・カレッジを1935(昭和10)年頃に卒業して日本へ戻った。その後、活気をなくしていた旧長崎居留地に新風を吹き込み、ホーム・リンガー商会と瓜生商会(ホーム・リンガー商会の下関における下会社)の活動に新たな期待を呼び起こした。
しかし、太平洋戦争の暗い影が忍びよる1940(昭和15)年、兄弟は突然スパイ容疑で拘留された。釈放後、2人は長崎を離れて中国へ渡り、英国軍に入隊した。当時、ヴァーニャはイギリス人のプルネラ・フランクと結婚して二児の父となっていたが、太平洋戦争勃発後に家族と別れ、パンジャブ大隊の中尉として戦地に向かった。
日本で生まれ育ち、日本人の友人や従業員に囲まれ、日本における外国系企業を引き継ぐはずだったヴァーニャは、日本軍の攻撃が予想されるマラヤ半島で仲間と共に武器を手に取り、日本兵を相手に戦う準備を整えた。英国軍は、快進撃を続ける日本軍から陣地を守るために苦戦を強いられた。ヴァーニャが所属するパンジャブ大隊は1942(昭和17)年1月のスリム川の戦いで日本軍と衝突。部隊を再編成するためにジャングルに撤退したが、ヴァーニャはこの2週間後に熱病にかかり急死した。享年25。プルネラ夫人は戦争が終結するまで夫の死についての公式な通知は受けなかった。
2021年5月
南山手秘話
EPISODE 99
ウィリアム・ウェントワースとミキ夫人
長崎居留地時代の南山手は、楠や銀杏の木々に囲まれた洋風の家とヨーロッパの香り漂う庭園が並ぶ閑静な住宅街だった。南山手を永住の地にして、生涯母国に戻らない外国人もいた。その一人はイギリス人の ウィリアム・ウェントワースである。
1847年にロンドンで生まれたこと以外、ウェントワースの若い時の動向や日本へ来航する経緯については不明である。1900(明治33)年、彼は長崎で荷上業を営むR・N・ウォーカー商会に就職し、翌年、独立してW・H・ウェントワース商会を大浦20番地で設立した。仕事内容はR・N・ウォーカー商会と同じ外国船舶への物資の供給や運送業だが、長崎は当時、国際貿易港として空前の賑わいを見せており、両社が争うことなく共存共栄できたと思われる。その後、ウェントワースは香港上海銀行に隣接する下り松42番地(現・松が枝町)に会社を移し、社名を九州スティーブドーレージ株式会社に変えた。
ウェントワースは11歳下の日本人女性ミキと結婚し、「雨のドンドン坂」近くの南山手21番地に居を構えた。家事や庭師の仕事を受け負っていたのは、長崎出身の山本勇助と妻のハツであった。山本ハツが長男を産むと、子供がいないウェントワース夫妻は家族のように迎え入れた。
1913(大正2)年、ミキ夫人は病気のために他界。享年55。愛妻を失ったウェントワースは、山本一家と同居し続け、南山手21番地の土地と建物を譲渡する代わりに1931(昭和6)年に83歳で亡くなるまで面倒を見てもらった。現在、ウェントワース夫妻は坂本国際墓地で一緒に永眠している。
2021年6月
南山手秘話
EPISODE 100
長崎港を眺めて
トーマス・グラバーが1876(明治9)年ごろ東京へ移住した後、一本松邸(現・旧グラバー住宅)は借家となり、外国人家族が入り代わり入居した。1909(明治42)年9月8日の手紙で、グラバーの長男、倉場富三郎はワカ夫人とともに一本松邸に引っ越す決心をしたと報告している。手紙の内容から、トーマス・グラバーが以前から一本松邸に住むように息子に頼んでいただけでなく、グラバー自身がそこで一緒に暮らし、晩年を長崎で過ごしたいとの思いがあったことが読み取れる。手紙の一部を下に紹介する。
「親愛なる父へ。先月20日と今月6日付の2通のお手紙ありがとうございます。前者を読んで、ご希望通り一本松邸に住むことをようやく決心しました。現在私は、外壁の塗り替えと屋内電灯の取り付けを見積もり中です。塗り替えは200〜250円がかかると思います。この二つの仕事は極めて必要だと考えおり、あなたがすぐ許可してくださることを確信しています。あなたのお部屋の壁紙をどうぞ選んでください。10巻は必要でしょう。他に縁用として8巻。それらの見本をお手元にお送りします。私とワカは真ん中の部屋を寝室として使用するつもりです。」
トーマス・グラバーが長崎に戻り、思い出深い一本松邸のベランダの椅子に座って半世紀以上も慣れ親しんだ港をゆっくり眺めたいという夢は叶わなかった。彼は、1911(明治44)年12月16日に73年の人生を終えるまで東京で過ごすのであった。
「南山手秘話」の連載はこの100回目を以て終わりにいたします。長らくご愛読いただき、ありがとうございました。
2021年7月