旧グラバー住宅 | グラバー園公式ウェブサイト

旧グラバー住宅


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スコットランド出身の商人トーマス・グラバーが親子二代に渡り暮らした
現存するわが国最古の木造洋風建築
指定:国指定重要文化財(昭和36年6月7日)
所在地:長崎市南山手町3番地(現在地、南山手町8-1)
建築年:1863年(文久3)
建築面積:510.8㎡(主屋)、129.2㎡(附属屋)
構造:木造平屋建、寄棟造、桟瓦葺、ベランダ付
 

 建物の平面は採光と通風を意識した半円形で、日本瓦や土壁(漆喰)を用いています。木造菱格子の天井を持つ広いベランダが特徴で、石畳の床に立つ木製の独立円柱、柱間の吊束(つりづか)を持つアーチ型欄間(らんま)が開放的な雰囲気をかもし出します。
 同邸宅の最初の主人であるトーマス・グラバーは1859年(安政6)21歳の時に長崎へ来航し、居留地として定められた南山手に自邸を建てました。グラバーは大きな松の木のすぐ横に建てられた自邸に「IPPONMATSU」という愛称をつけ、周囲からも「一本松邸」と呼ばれました。グラバーが1862年(文久2)に設立した「グラバー商会」が1870年(明治3)に倒産すると、住宅の権利は弟のアルフレッドに譲渡され、アルフレッドは管理人として住宅を居留地の人々に貸し出しました。その後グラバーが上京し、アルフレッドが死去すると、息子の倉場富三郎夫妻が住宅の権利を持ち、そこを住まいとしました。富三郎は第二次世界大戦が始まると住宅を三菱重工長崎造船所(現三菱重工業株式会社長崎造船所)へ売却。終戦後はアメリカ進駐軍の接収を経て1950年(昭和32)長崎造船所開設100周年を記念して同造船所から長崎市へ寄贈され、翌年から一般公開が始まりました。1961年(昭和36)には「旧グラバー住宅」の名称で国の重要文化財に指定され、2015年(平成27)に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産として世界遺産に登録されました。

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トーマス・グラバー
(Thomas B. Glover, 1838-1911)
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トーマス・グラバーとその家族。
グラバー邸前の庭にて(明治35年頃)
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グラバー邸の温室。邸の愛称「IPPONMATSU」
の由来となった松の木がそびえる。
 

 

 

トーマス・ブレーク・グラバー(1838-1911)

造船、採炭、製茶などの貿易を通して我が国の近代化に貢献

 グラバーは1859年(安政6)9月19日、21歳のとき開港して間もない長崎に訪れました。来崎当初はジャーディン・マセソン商会の代理人ケネス・ロス・マッケンジーの仕事の補佐でしたが、マッケンジーは天津条約(1858年)により中国が開港すると、漢口での業務に向けて長崎を去り、全ての業務をグラバーに託しました。グラバーは20歳前半の若さでジャーディン・マセソン商会の代理業務を担うこととなり、1862年(文久2)グラバー商会を設立しました。グラバーは貿易商人として主に茶や生糸を輸出し、西南諸藩の需要に応じて布類や香辛料、鉄材などのほか、中古の蒸気船や武器を輸入品として扱いました。また日本人の英国留学の援助を行い、五代友厚率いる薩摩藩の19名の藩士が英国留学を果たし、彼らは帰国後日本の近代化を盛り立てました。そのほか、大阪造幣局の開設や現在の「キリンビール株式会社」の前進会社であるビール会社「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」の設立にも尽力。そして1908年(明治41)、70歳のときに近代日本に貢献をしたとして叙勲を受け、その3年後東京の自邸で死去しました。現在グラバーは長崎市の坂本国際墓地で妻のツルと共に眠っています。

 

倉場 富三郎(1870-1945)

我が国にトロール漁法を導入し、長崎の水産業近代化に貢献

 倉場富三郎はグラバーと日本人女性との間に生まれました。富三郎は長崎、東京で就学した後、アメリカ留学を経て長崎のホーム・リンガー商会に入社。1907年(明治40)に同社が子会社として「汽船漁業」を設立した際、富三郎は専務取締役を務め、イギリスから日本初の蒸気トロール船を購入。これまでの日本の漁法とは大きく異なり、驚くような漁獲をもたらしました。また日本人と外国人の交流を深めることを目指しイギリス風の紳士クラブ「長崎内外倶楽部」を設立するほか、長崎県の避暑地として人気があった雲仙に外国人と日本人が一緒に利用できるゴルフのパブリックコースを造ることにも尽力しました。当時、外国人専用のゴルフ場が多かった中、日本人も利用可能としたコースは、ゴルフを通して日本人と外国人の交流の場となりました。地元の画家を雇い市場で仕入れた魚類を描かせ完成した「日本西部及び南部魚類図譜」(通称グラバー図譜)は日本四大魚譜の一つに数えられています。
 富三郎は妻のワカと1909年(明治42)頃より、南山手3番(現旧グラバー住宅)で暮らし始めます。しかし1939年(昭和14)、第二次世界大戦が勃発すると、倉場夫妻は南山手3番を同造船所に売却し、南山手9番で居住を始めました。戦争が進行するにつれ国内の生活は悪化し、さらに外国人国籍の者たちは日本退去を命じられました。日本国籍を取得していた富三郎らは長崎で暮らすことができましたが、不安定な状況の中1943年(昭和18)ワカは9番で急死。孤独になった富三郎は一人で原爆・終戦を迎えました。そして8月26日、富三郎は南山手9番で自死しました。現在富三郎は父グラバーの隣りで妻のワカと共に眠っています。

 
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