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Story 14長崎のデ・スーザ家

 ポルトガル人シモン・デ・スーザは出身地のマカオから明治初年に来崎し、英字新聞の編集者などを経て、長崎米国領事館で通訳兼事務官のポストに就いた。日本人女性と結婚して十数人の子供たちの父となった彼は、長崎居留地の中で日本人と外国人の「架け橋」として活躍し、明治37年(1904)に他界して坂本国際墓地で眠る。

 シモン・デ・スーザの息子アルミロは、明治13年(1880)に長崎で産声を上げた。南山手26番地の邸宅で少年時代を過ごし、カトリック系男子校「海星学校」を同31年(1898)に卒業した。その後、兄と共に小売および問屋業の「デ・スーザ商会」を旗揚げしたが、この事業は順風満帆とは行かず、S・D・レスナー商会に一時転職した。しかし、明治37年(1904)、香港上海銀行が下り松海岸(現在の松が枝町)に長崎支店の社屋を新築した際に、彼は同銀行の行員という安定した職を得た。 アルミロ・デ・スーザは日本人とフランス人の間で生まれた女性と結婚し、南山手8番地に新居を構えた。一家は幸せな生活を送っていたが、彼は大正10年(1921)に肺炎を患い、同年11月、妻と8人の子供たちが見守る中で息を引き取った。享年41歳。

 南山手8番地の自宅は戦後に取り壊され、その跡地には現在、グラバー園入口前に商店が軒を並べている。一方、デ・スーザ夫人がイタリアから取り寄せ、坂本国際墓地の亡き夫の墓前に設置した天使像2体は、現在も祈りを捧げ続けている。

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