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Story 25悲運の倉場富三郎

 長崎市役所に保管されている戸籍によると、トーマス・グラバーが明治3年12月8日(1871.1.28)、加賀マキという日本人女性との間に息子を授かったことが示されている。「富三郎」と呼ばれた子は少年時代を長崎と東京で過ごし、数年間のアメリカ留学を経て同25年(1892)に長崎へ戻ってきた。その後、日本の戸籍を取得し、公式に「倉場富三郎」と名乗った。

 倉場富三郎の温厚かつ几帳面な性格と語学力から、勤務先であったホーム・リンガー商会の様々な国際活動で役割を担った。重要な業績の一つは、汽船漁業会社を立ち上げて日本に初めてトロール船を導入し、20世紀初期の日本の漁業業界に革命を起こしたことである。彼の尽力もあり、長崎県は日本でも指折りの水産県に成長して現在に至る。

 国際理解を深めようとした倉場富三郎の努力とは裏腹に、昭和初期の長崎では戦時色が深まっていき、英米と関係ある人々は次第に肩身の狭い思いをするようになった。昭和14年(1939)、倉場は三菱長崎造船所に旧グラバー住宅を売り渡し、南山手9番館(現在の三菱南山手外国人社宅)に移住した。

 同20年(1945)8月9日、長崎の北部で原子爆弾がさく裂した時、倉場富三郎は家の中にいてその強烈な爆風を感じた。そして同26日に南山手の自宅で自らの命を絶ち、長崎とグラバー家の関係が悲劇的な結末を遂げた。終戦からわずか数日後に自殺したのは、単なる絶望感からでなく、戦いにおいて根本的にどちらの側にもつくことができない心の葛藤があったからだと考えられる。

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