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Story 63南山手の残像

 1945(昭和20)年8月15日に太平洋戦争が終わると、原爆によって甚大な被害を受けた長崎は、かつての繁栄と国際色が嘘のように消えていた。長崎駅より北の市街地は壊滅状態になっており、市の中心部にある公共の建物は二次火災によって焼失していた。

 一方、旧長崎外国人居留地の建物は、爆心地から離れていたことと、山や川で守られたことから深刻な被害を免れた。旧グラバー住宅は観光地としての新しい時代を迎えたが、他の南山手の洋風住宅は、ほとんど変わらないまま存在していた。戦後の長崎を訪れたリンガー家の友人は手紙のなかで、南山手の様子を次のように描写している。

 「長崎にいるときにリンガー住宅をみる機会があった。1931(昭和6)年に長崎までの航海を終えてフレディー(フレデリック・リンガー2世)から乾いた喉に大量のジンを流し込まれたとき以来、そこには立ち寄ることがなかった。南山手の上から下まで、旧外国人居留地のなかを1、2時間歩きまわると、その懐かしい雰囲気に感動した。そこには時間の流れからほとんど影響を受けずに多くの目印が残っていた。 巨大な石垣、急な坂道、街灯、覆っている木の間から垣間みえる威厳のある住宅、それに、正体不明の幽霊がさまよっているような、近代化されず静かで交通量の少ない道路などであった」と。

 現在、明治期の洋風建築は当初の一割にも満たないが、横浜や神戸に比べて旧長崎外国人居留地の原風景はよく残っている。今後、南山手にたたずむ洋風建築、石畳や煉瓦塀は歴史的風致とともに、国境を越えた友情とロマンスの物語を伝え続けるだろう。

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