Story 65忘れられたフランス人医師
フランス人医師レオン・デュリー(Leon Dury)は、徳川幕府が函館に計画していた病院を指導する医師として日本へ派遣された。しかし、幕府の都合により病院建設が中止となったため、彼は長崎在留フランス領事に赴任することになった。
1861(文久元)年11月に赴任したデュリーは、大徳寺にフランス領事館を開設し、その後、南山手7番地で新築した住宅に活動の場を移した。1863(文久3)年、パリ外国宣教会のプティジャン神父らを長崎に招き、翌々年に執り行われた大浦天主堂の落成式を主催した。領事を務めるかたわら、デュリーは日本人にフランス語を教え、1865(慶応元)年、大村町の旧長州藩屋敷で開設された「済美館」(旧洋学所)で教鞭をとった。
生徒の一人だった松田雅典は、デュリーが食べていた缶詰食品に衝撃を受け、1871(明治4)年、デュリー指導の下、日本初のイワシ油漬の缶詰試作に成功した。松田はその製造法から、缶詰のことを「無気貯蔵」と呼んでいた。
長崎におけるフランス領事館の廃止に伴い、レオン・デュリーは京都府の招聘に応じて官立の京都仏学校でフランス語教師となった。生徒に慕われた彼は、京都仏学校が廃止されて東京の開成学校(現東京大学)へ転任することになった際、数十人の生徒が彼に付き従い上京したという。1877(明治10)年にフランスへ帰国した後も、レオン・デュリー医師は日本の発展に注意を払い、生徒たちとのつながりを大切にした。
1885年(明治18)、日本での功績により勲四等旭日小綬章を受賞し、1888年(明治21)にはマルセイユの名誉日本領事に任命された。