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Story 67三浦環像

 昭和24(1949)年ころ、アメリカ進駐軍は戦後直後から接収していた旧グラバー住宅を明け渡して長崎を去った。彼らが遊びで付けていたニックネーム「マダム・バタフライ・ハウス」が日本人の間でも流行り、長崎の観光産業を活性化させるために広く使われるようになった。バスガイドまでも感動のアリア、「ある晴れた日」を歌う勉強をして旧グラバー住宅を訪れる観光客を楽しませたという。

 昭和36年(1961)6月、日本政府は旧グラバー住宅を重要文化財に指定したが、主な趣旨は日本における最初の木造洋風住宅という建築学的価値に対する評価である。所有者の長崎市は、建物の現状を変えるようなことさえしなければ、自由に展示内容を決めることができた。結果として、「蝶々夫人の家」や「蝶々夫人ゆかりの地」の作り話が史実より重視された。

 同38年(1963)5月、三浦環の銅像が旧グラバー住宅の真横に設置された。三浦環は、戦前に蝶々夫人の主役を2000回も演じて国際的な名声を得たソプラノ歌手。銅像は、蝶々さんが幼い息子を隣に、父親のピンカートン大尉が間もなく帰ってくるはずの長崎港を指す姿を表現している。

 同じころ、大浦47番地にあった洋風住宅は取り壊されたが、表の門柱だけが保存され、旧グラバー住宅と旧リンガー住宅の間にある庭園に移された。門柱にはフリーメイソンの定規とコンパスのシンボルが刻まれていた。その後、三浦環像はフリーメイソンの門柱があった上の段に移され、門柱は旧リンガー住宅の横に移されたが、どちらも現在に至って誤解を招き続けている。

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