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Story 75グラバー住宅三度の危機

 トーマス・グラバーは、文久3年(1863年)、南山手の高台に木造平屋建てバンガロー住宅を建設し、庭に生えていた大きな松の木に因んで「IPPONMATSU(一本松)」と名付けた。グラバー住宅は、三度にわたりグラバーの手から離れそうになったことはあまり知られていない。

 グラバー商会は明治3年(1870年)、多額の借金を抱えて倒産。トーマス・グラバーは、明治7年(1874年)1月30日、財産整理の一環として住宅と土地の借地権を弟アルフレッドに譲り、さらにその翌日にオランダ貿易会社へ譲渡した。グラバーの側近であったアイルランド人技師T・J・ウォートルスが五千ドル(洋銀)を融資したことで、再びアルフレッドの名義に戻ったが、その間、同住宅はグラバー家の所有でなかったことになる。

 二度目の危機は明治10年(1877年)12月に訪れた。アルフレッドはグラバー住宅を「売るまたは貸す」という広告を長崎の英字新聞に出したが、結局は売らずに所有権を持ち続けた。その後の約27年間は、長崎英国領事やその他の外国人居留者の住まいとなった。 日露戦争の頃、トーマス・グラバーは再び長崎における自宅を手放そうと考えていたようだ。長男の倉場富三郎が東京の父に宛てた、明治38年(1905年)10月19日付の手紙で、フレデリック・リンガーに建物の購入を持ちかけたが、リンガーはすでに南山手14番館(現在の旧オルト住宅)を買っていたので断られたと報告している。

 結果として、太平洋戦争前に三菱長崎造船所に売却されるまで、倉場富三郎夫妻は同住宅に居を構えてグラバー家とのつながりを堅持した。

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