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Story 81戦後の南山手甲10番地手

 オランダ坂下に位置する南山手甲10番地は明治初期から、西洋居酒屋やホテルの所在地だったが、1873(明治6)年、「ゲルマニア・ボウリング・サルーン」がこの地に開設された。ドイツ人経営者が1881(同14)年に死亡すると、施設は「ナガサキ・ボウリング・クラブ」として生まれ変わり、数少ない居留地の娯楽施設として繁盛していった。

 日露戦争が勃発した1904(明治37)年、経営難に陥いたボーリング場は競売にかけられ、イギリス人豪商フレデリック・リンガーに土地と建物が落札した。その後、ナガサキ・ボウリング・クラブは、1930(昭和5)年ごろまで経営を続けた。 南山手甲10番地の所有権はフレデリック・リンガーの息子たちに受け継がれた。

 長男フレディは1940(同15)年に死亡。次男シドニーは太平戦争勃発直前に上海へ逃れ、苦難に満ちた10年間後にやっと長崎へ戻ることができた。その後、シドニーは実家の南山手2番館(現・旧リンガー住宅)で過ごし、戦時中に敵国財産として没取されていた財産を取り戻す手続きをとった。 戦地からの引揚者や身寄りのない人々に不法占拠されていた南山手甲10番地の建物について、シドニーは次のようにイギリス政府代表に訴えた。「屋根は修理が必要ですし、建物の塗装を怠ったために外壁の板の多くが腐敗しています。今では、150人ほどの人間が建物に滞在していますので、修理はもちろん効率的に行うことができません」と。

 シドニー・リンガーによって売却された南山手甲10番地は更地にされ、現在は駐車場として使われている。

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