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Story 85マイケル・リンガーの悲しみ

 イギリス人豪商フレデリック・リンガーの次男シドニーは、1913(大正2)年にアイリーン・ムーアと結婚して実家の南山手2番館(現在の旧リンガー住宅)に入居した。同年と1916(大正5)年にそれぞれ、長男マイケルと次男ヴァーニャの親となった。

 マイケルとヴァーニャは少年時代を長崎で過ごした後、イギリスの名門学校マルバーン・カレッジにおいて伝統的な教育を受けた。卒業後、2人とも日本へ戻り、ホーム・リンガー商会の後継者として新しい生活を始めた。

 しかし、太平洋戦争の暗い影が忍びよる1940(昭和15)年、兄弟は突然スパイ容疑で拘留された。釈放後、2人は長崎を離れて中国へ渡り、マイケルは諜報将校、ヴァーニャはパンジャブ大隊の中尉として英国インド軍に入隊。戦時中にヴァーニヤは戦死。一方、マイケルは日本軍に捕まえられ、終戦までインドネシアの捕虜収容所で通訳や捕虜代表として働いた。日本で育つ間に身につけた語学力と文化的な共感により無事にこの試練を乗り越えられた。戦後に解放されてから初めて弟の死を知ったのであった。

 当時、マイケル・リンガーは少佐の階級にまで上り詰めていた。終戦の翌年に東京で行われた極東国際軍事裁判(東京裁判)に招かれて証言台にたったが、50ページに及ぶ彼の証言録には恨みや憎しみがまったく感じられない。

 その後、イギリスに戻って弟ヴァーニャの未亡人と結婚し、酪農場を経営しながらヴァーニャの遺児2人を育てた。1978(昭和53)年に64歳でこの世を去るまで、生まれ故郷の長崎に戻ることがなかった。

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