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Story 98ヴァーニャ・リンガーの運命

 南山手2番地の邸宅(現在の旧リンガー住宅)に住んでいたシドニーとアイリーン・リンガー夫妻は、1913(大正2)年に長男のマイケル、また、1916(同5)年に次男のヴァーニャを授かった。子供時代を長崎で過ごした兄弟は、イギリスの名門学校マルバーン・カレッジを1935(昭和10)年頃に卒業して日本へ戻った。その後、活気をなくしていた旧長崎居留地に新風を吹き込み、ホーム・リンガー商会と瓜生商会(ホーム・リンガー商会の下関における下会社)の活動に新たな期待を呼び起こした。

 しかし、太平洋戦争の暗い影が忍びよる1940(昭和15)年、兄弟は突然スパイ容疑で拘留された。釈放後、2人は長崎を離れて中国へ渡り、英国軍に入隊した。当時、ヴァーニャはイギリス人のプルネラ・フランクと結婚して二児の父となっていたが、太平洋戦争勃発後に家族と別れ、パンジャブ大隊の中尉として戦地に向かった。

 日本で生まれ育ち、日本人の友人や従業員に囲まれ、日本における外国系企業を引き継ぐはずだったヴァーニャは、日本軍の攻撃が予想されるマラヤ半島で仲間と共に武器を手に取り、日本兵を相手に戦う準備を整えた。英国軍は、快進撃を続ける日本軍から陣地を守るために苦戦を強いられた。ヴァーニャが所属するパンジャブ大隊は1942(昭和17)年1月のスリム川の戦いで日本軍と衝突。部隊を再編成するためにジャングルに撤退したが、ヴァーニャはこの2週間後に熱病にかかり急死した。享年25。プルネラ夫人は戦争が終結するまで夫の死についての公式な通知は受けなかった。

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