Story 99ウィリアム・ウェントワースとミキ夫人
長崎居留地時代の南山手は、楠や銀杏の木々に囲まれた洋風の家とヨーロッパの香り漂う庭園が並ぶ閑静な住宅街だった。南山手を永住の地にして、生涯母国に戻らない外国人もいた。その一人はイギリス人の ウィリアム・ウェントワースである。
1847年にロンドンで生まれたこと以外、ウェントワースの若い時の動向や日本へ来航する経緯については不明である。1900(明治33)年、彼は長崎で荷上業を営むR・N・ウォーカー商会に就職し、翌年、独立してW・H・ウェントワース商会を大浦20番地で設立した。仕事内容はR・N・ウォーカー商会と同じ外国船舶への物資の供給や運送業だが、長崎は当時、国際貿易港として空前の賑わいを見せており、両社が争うことなく共存共栄できたと思われる。その後、ウェントワースは香港上海銀行に隣接する下り松42番地(現・松が枝町)に会社を移し、社名を九州スティーブドーレージ株式会社に変えた。
ウェントワースは11歳下の日本人女性ミキと結婚し、「雨のドンドン坂」近くの南山手21番地に居を構えた。家事や庭師の仕事を受け負っていたのは、長崎出身の山本勇助と妻のハツであった。山本ハツが長男を産むと、子供がいないウェントワース夫妻は家族のように迎え入れた。
1913(大正2)年、ミキ夫人は病気のために他界。享年55。愛妻を失ったウェントワースは、山本一家と同居し続け、南山手21番地の土地と建物を譲渡する代わりに1931(昭和6)年に83歳で亡くなるまで面倒を見てもらった。現在、ウェントワース夫妻は坂本国際墓地で一緒に永眠している。