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Story 18ジョルダン夫人と西洋音楽の普及

 南山手8番地の邸宅に長年居を構えていたジョルダン一家は長崎における西洋音楽の普及に大きな役割を果たした。オーエ・ジョルダンはデンマーク・コペンハーゲンで生まれ。明治15年(1882)に同国の大北電信会社香港支局に技術者として就任し、その2年後には恋人のキャロラインをデンマークから招き結婚した。上海とアモイ(廈門)で勤務したあと、彼は明治24年(1891)年、長崎支局に転属になり妻と息子3人を連れて長崎にやってきた。

 ジョルダン夫妻と息子たちは熟練したミュージシャンでもあった。居留地で開催されるパーティーや舞踏会で演奏するだけでなく、楽器や歌の才能を持つ居留者たちを集めてその組織化を推進した。日露戦争が終結した明治38年(1905)、キャロライン・ジョルダン夫人の計らいによって「ナガサキ・ミュージカル・アソシエーション」(長崎音楽協会)が結成された。初期の頃、オーケストラの奏者のほとんどが在住外国人であったが、活水女学校音楽科の卒業生やジョルダン夫人の日本人生徒などが次第に加わるようになった。

 オーエ・ジョルダンは大正7年(1918)7月、帰らぬ人となり、坂本国際墓地に埋葬された。息子たちは大人になってから海外に移住した。西洋音楽の普及に尽力したキャロライン・ジョルダン夫人は、大正13年(1924)に多くの長崎の友人と生徒たちに惜しまれながら長崎を離れた。

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