Story 9福田サトの運命
日本郵船会社(NYK)の船長として活躍していたロバート・N・ウォーカーは、明治19年(1886)に神戸~ウラジオストク間の航路に就任するために、日本人妻福田サトと4人の子供を連れて神戸から南山手31番地の邸宅に移住した。長崎でも3人の子供が生まれ、9人の大家族となった
しかし、明治24年(1891)、ウォーカー船長が指揮する高千穂丸は対馬南部の海岸に座礁してしまった。彼は事故の責任をとり辞職し、家族を長崎から引き上げて英国の故郷メリーポートへ帰った。あまりにも大きすぎたストレスのせいか、サトは36歳の若さで急病に倒れ、帰らぬ人となった。ウォーカー船長は愛妻の死を惜しみながらも当時9人にまで増えていた子供たちを連れて日本へ戻り、長崎居留地に荷揚げ業の「R.N.ウォーカー商会」を立ち上げた。彼は明治41年(1908)にカナダへ移住したが、90歳で他界するまで再婚することはなかった。長崎に残った次男ロバート・ウォーカー二世は、R.N.ウォーカー商会を継承して地域経済の発展に寄与していった。彼が大正4年(1915)に購入した南山手乙28番地の洋風住宅は、昭和49年(1974)年7月、遺族によってグラバー園に寄贈された。
現在、南山手に住んでいた福田サトのことを覚えている人はほとんどいないが、旧ウォーカー住宅は海の見えるグラバー園の高台に大切に保存されており、波乱万丈の歴史を今もささやき続けている。