Story 11国宝・大浦天主堂について
フランス人医師レオン・ドュリーは、文久2年(1862)に駐在長崎フランス領事に任命された。ドュリーの要請により、パリ外国宣教会は翌年、教会と伝道本部を設立するためにフランス人司祭テオドル・フューレを長崎に派遣した。喜んだドュリーは、教会建設予定地として南山手甲1番地の借地権を確保した。
文久3年(1863)ベルナード・プティジャン神父らも長崎に到着した。その前年、東山手で日本最初のプロテスタント教会である英国教会堂の建設に携わっていた天草出身の小山秀之進が新しい教会の施工を引き受けた。翌年末に完成した教会は、英国教会堂と同様に殉教地である長崎市西坂に向けて建てられ、「日本二十六聖殉教堂」と正式に命名され、日本では教会建物に地名を付けて呼ぶ習慣があるため、通称「大浦天主堂」と呼ばれた。献堂式が挙行された元治2年(1865)2月19日から1ヵ月もたたない内、日本人農民の一団が教会を訪れ、彼らが長崎の郊外に住む潜伏キリシタンであることをプティジャン神父に打ちあけた。それは世界を震撼させた「信徒発見」の瞬間であった。
明治8年(1875)、パリ外国宣教会は日本人司祭育成を目的として長崎公教神学校の校舎兼宿舎を天主堂の敷地内に建設した。同神学校を設計したのは、その後、貧困に苦しむ人達のために社会福祉活動に尽力し、現在も「ド・ロさま」と呼ばれ親しまれるマーク・マリー・ド・ロ神父であった。大浦天主堂は、昭和28年(1953)に国宝に指定されたが、南山手を訪れる観光客の増加にともない、同50年(1975)、カトリック大浦教会が近くに新築され、大浦天主堂は有料観光施設として一般に開放された。