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Story 13日本初の電報局

 明治元年(1868)、ロシア政府がロシアから中国、日本、香港を結ぶ電信ケーブルを敷設する入札を要求したところ、デンマークに本社をおく大北電信会社がその権利を獲得し、ウラジオストックから長崎、上海、香港まで、2300海里(約4260キロメートル)の距離を海底電信ケーブルで結び、南山手11番地にあったベル・ビュー・ホテルの一室に電報局を構えた。そして明治4年(1871)年8月12日に日本初の海外電報サービスが始められたのである。

 当時、長崎から上海の電報代は、20文字で3ドル(洋銀)と高額なものであった。長崎から上海まで敷設された海底ケーブルは、すでにイギリス系の電信会社がつくっていたヨーロッパ・アジア回線やヨーロッパ・アメリカ回線と接続し、世界を周回する雄大な回線ができた。これにより、日本は世界の電信網につながった。

 明治7年(1874)、同会社はベル・ビュー・ホテルから長崎郵便局の隣、梅香崎2番の大きな2階建て洋館に長崎支局を移転した。建物の外にはデンマークの国旗が掲げられ、日本の国際通信を外国の会社が統御していることを象徴した。大北電信会社の歴代支局長とその他の従業員たちが、日本の電信技術の促進において重要な役割を果たすこととなった。明治32年(1899)の条約改正により居留地制度が廃止された後、日本政府は海底ケーブルの管理権の譲渡を求めたが、大北電信会社が太平洋戦争直前まで日本の国際通信の大動脈を握り続けたのである。

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