Story 28ロシア領事館の面影
長崎最初のロシア領事、アレクサンドル・フィリッペスが明治元年(1868)11月から南山手9番地(後17番地)で事務所を開設したが、同3年(1870)に実施された外国人人口調査によると、彼が長崎居留地に在住するたった1名のロシア人であった。
明治9年(1876)、アレクサンドル・オラロブスキーがロシア領事に就任し、南山手甲5番地の自宅に領事館を開設した。長崎を訪れるロシア人が増加すると、領事館の敷地内にロシア海軍病院およびロシア正教会の教会が建立された。明治30年(1897)3月、ロシアの東洋艦隊軍艦7隻が長崎港に停泊し、その後も冬季には長崎に回航して避寒するのが恒例となった。同33年(1900)になると、ロシア人人口は142人に達し、他の欧米人人口を上回った。
日露戦争の勃発により、長崎における日本とロシアの交流はほぼ停止状態になったが、戦後、南山手甲5番地の長崎ロシア領事館は復活し、ロシア正教会の日本人神父アントニイ高井が長崎における活動を再開した。その後、旧ロシア海軍病院跡地に長崎正教会の聖堂が建立され、太平洋戦争前夜まで存続した。
ロシア革命後の大正14年(1925)、ザックハー・テル・アサチュロッフは最初の在長崎ソ連領事となり、領事館を南山手甲5番地から大浦海岸通りに面する大浦4番地(現ホテルニュータンダ所在地)へ移設した。昭和6年(1931)に帰任したアレクサンドル・マキシモフが領事館を南山手甲5番地に戻したが、翌年、長崎ロシア領事館の歴史に終止符が打たれた。