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Story 31ウォーカー氏の平和主義

 昭和20年(1945)9月23日、連合軍の第一波が長崎港に到着し出島埠頭に上陸すると、捕虜の本国帰還、兵器没収、連合軍軍人の宿舎確保など複雑な作業に着手した。 連合軍はまもなく、南山手乙28番地に住み続けるロバート・ウォーカー二世一家は長崎に残る唯一の「外国人」であることを把握し、十分な食料や生活物資を与えた。

 ロバートにとって最もありがたかったのは、戦争勃発から味わえなかったスコッチウィスキーを部隊長が度々届けてくれることであった。戦犯に関する調査を進める中で、連合側は元憲兵など日本人容疑者を連れてきたが、ロバート・ウォーカー二世は決まってどの顔にも見覚えがないと答えたのであった。ウォーカー夫妻は長年の争いに疲れ果てていた。太平洋戦争前にうわべだけの国際親善への関わりを避けていたように、戦後も憎悪感や復讐心を煽ることには関わりたくはなかったのである。

 連合軍が去った後、ロバートとメーベル夫人は息子のアルバート、デニスと共に南山手乙28番地の住宅で静かな老後の生活を送り、日本の市民権をもつ英語名の住人として長崎では異彩を放っていた。ロバートは自宅のベランダで何時間も一人座って長崎港を見つめながら、過去の出来事や親戚、友人、仕事関係の全ての人々の顔をつくづくと思い出しながら隠遁生活を送っているようであった。

 昭和33年(1958)8月22日のロバート・ウォーカー二世の死は長崎の新聞でさえ取り上げなかったが、それが彼自身望んだことであったろう。

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