Story 32リンガーの搾乳場
明治元年(1868)、フレデリック・リンガーと同僚のエドワード・Z・ホームが独立し、グラバー商会の茶葉貿易を引き継ぐ形で「ホーム・リンガー商会」を立ち上げ、大浦地区に事務所と製茶工場にて開業した。ホームは間もなく英国に帰ったが、リンガーは社名を変えずに営業を続け、長崎における外国貿易の第一人者となった。
ホーム・リンガー商会は多様化しながら拡大を続け、やがて明治期長崎の大黒柱へと成長した。フレデリック・リンガーのビジネス活動に関する記録は豊富に残されているが、個人生活や趣味の多くは歴史資料に間接的にふれているだけである。
例えば、彼が家庭用のバターとチーズを作るための牛乳を確保するために搾乳場を運営していたことはあまり知られていない。明治26年(1893)、匿名の住人が近所に漂う悪臭の苦情を長崎県知事に伝えていたおかげで関連資料が残っており、その苦情に対して、リンガーは英国領事、ジョン・J・クインに以下のように弁明した。
「私がヨーロッパに渡っていた間に当地で育っている家畜の数が自分の指示に反して適量を遥かに越えてしまったことを是非知っていただきたいと思います。これまでに隣人たちから苦情を受けたことは一切ありませんでしたが、おそらく今回の苦情はこの無計画な家畜の増加によるものだと考えています。現在家畜の量を減らす努力を始めており、今ある全ての苦情を取り除くために全力で取り組ませていただきます。」
搾乳場の場所は不明だが、もともとはリンガー所有の土地で、現在はグラバー園第二ゲートの近くにある「リンガー公園」の辺りだったと考えられる。