Story 33フューレ神父の帰国理由
文久3年(1863)に来崎したパリ外国宣教会の宣教師ルイ・テオドル・フューレは、南山手に土地を購入して司祭館を建てた。大浦天主堂の建設に取りかかったが、完成を見届けずにプティジャン神父に引き継いで帰国。理由は、キリシタン迫害が続く日本での宣教活動に失望したからとされるが、実際は大浦天主堂の吊り鐘やその他の備品を調達するためだったと考えられる。パリ外国宣教会本部に保管されている資料によると、フューレ神父が帰国中にフランス貴族からの資金援助を受け、故郷ル・マン市のボレー工場から吊り鐘を二千フランで注文したという。
鋳工師のボレー親子は、フランスで鋳工業だけでなく、自動車産業での先駆的な役割も果たしたことで有名である。父のアメデ・ボレーは、蒸気の力で動く革命的な自動車を開発し、そのあとを継いだ長男アメデは12人乗りの蒸気自動車「オベイサント号」をル・マンからパリまで18時間で走らせ、首都でセンセーションを巻き起こした。今日、世界三大カーレースのひとつであるル・マン24時間耐久レースが毎年開催されるル·マン市内にはボレー親子にちなんだ「ボレー大通り」がある。
一方、親子によって鋳造されたブロンズの吊り鐘は、日本人信徒が発見された慶応元年(1865)、大浦天主堂の鐘楼に設置され、150年経った今も現役で鳴り続けている。信徒発見の知らせを受けたフューレ神父は再び長崎に上陸したが、明治2年(1869)にフランスへ帰国して故郷で余生を送った。