Story 45最後の大型レンガ倉庫
松が枝町に居留地時代の面影を伝える大きなレンガ倉庫が目につく。現在は製綱工場として使われているが、その意外な来歴は以下の通りである。場所は江戸時代から馬小屋が立ち並んでいたが、長崎居留地の開設に伴い「下り松44番地」として区画され、外国人が借地権を保持するようになった。
英字新聞「ナガサキ・プレス」の明治31年(1898)3月31日号に載った「貴重な井戸と数件の馬小屋などを含む」という同区画の売却広告から、それまで馬小屋のままで利用されていたことが伺える。下り松44番地の借地権をこの時点で獲得したのは、日本郵船会社の元船長ロバート・N・ウォーカー。荷揚げ業者として開業していた彼は、家族共々隣の南山手乙9番館に居を構えていた。
明治35年(1902)、荷物の一時保管を目的としてレンガ倉庫を建てたが、翌々年、長崎のオークションで清涼飲料水製造機一式を購入し、建物内に「バンザイ清涼飲水会社」を開設した。大正8年(1919)に閉鎖されるまで、同工場はジンジャーエールなど炭酸飲料を独自のラムネ瓶で生産した。
大正14年(1925)、事業を引き継いでいたウォーカー船長の次男ロバート・ウォーカー二世は工場の機材とレンガ倉庫を売りに出し、翌年、長崎の実業家中部悦良に譲った。この取引により、幕末から続いていた永代借地権が抹消された。その後、レンガ倉庫は大日本製氷、日本食料工業、日本水産、三菱重工業などの手に渡り数奇な運命をたどった。
昭和28年(1953)、大阪の前岡製綱社がレンガ倉庫を購入して子会社として「寶製綱株式会社」を開設し、現在に至る。