Story 46日本初期の西洋芝生
西洋の芝生庭園の歴史は、牧草地の風景を庭に取り入れたいと考えていたイギリスの地主貴族たちから始まる。芝生はやがて中産階級や庶民の庭にも普及、さらにイギリス風景式庭園のみならずフランス平面幾何学式庭園をはじめ様々な様式の庭で使われるようになり、欧米の住宅では芝生はごく一般的な存在となった。安政開港後の南山手で日本初期の西洋芝生庭園が造られた。南山手14番地のウィリアム・オルトの邸宅(現在の旧オルト住宅)が慶応元年(1865)に完成しているが、その直後に撮影された写真には、地ならし用ローラーを押す人物が写っている。この事実から、長崎居留地における芝生庭園の造成は幕末期に始まったと推察できる。
ウィリアム・オルトやその他のイギリス人たちは、観賞はもとより、芝生庭園で西洋の野外スポーツやゲームを楽しんでいた。テニス、ボーリングやクロッケー(芝生で行われるイギリス発祥の球技で、日本におけるゲートボールの原型)が行われるようになった。南山手2番館(現在の旧リンガー住宅)と南山手3番館(旧グラバー住宅)の間にも芝生庭園が造られ、テニスなどのみならず野外コンサート、パーティーおよびその他の社交的つどいにも使用された。
戦後、同庭園はそのまま市民憩いの場となったが、グラバー園の開園後、石畳が敷かれた多目的スペースに変り、現在はガーデンカフェとして使われている。芝生庭園の面影を残す唯一のものは、グラバー園内の細道の片隅に忘れられたように放置されている、石でできた重い地ならし用ローラーだけである。