Story 48十六番館の昨今
グラバー園出口のそばに「十六番館」という現在では使われていない観光施設がある。建物は幕末の東山手16番地に建てられた西洋風建築だが、慶応3年(1867)年夏に日本政府が行った外国人居留地の調査によると、「ジョセフ・ヒコ」が住人だった。
兵庫県で浜田彦蔵として生まれたジョセフ・ヒコは、嘉永3年(1850)、乗っていた船が太平洋を漂流していたところをアメリカ船に救助された。若干13歳の時であった。合衆国で教育を受け、安政6年(1859)に日本へ帰国した。慶応3年(1867)6月に来崎した彼は、そのすぐれた言語能力が認められ、肥前藩の代理人となり、グラバー商会にも籍を置いた。同年、東山手の自宅に後の首相伊藤博文と長州の勤王派木戸孝允の訪問を受けたという記録が残っている。
明治12年(1879)、メソジスト伝道会が東山手16番館を購入し、活水女学校を創設した。その後、米国改革派教会が建物を宣教師住宅として確保したが、やがて活水女学校が東山手キャンパスの一部に組み入れた。
太平洋戦争後、建物は荒廃したが、元宝塚歌劇のスターで長崎県生まれの古賀野富子(芸名嵯峨あきら)により購入され、解体を免れた。昭和32年(1957)、古賀野は旧グラバー住宅の近くに建物を移築し、資料館として公開。建物は移設後も「十六番館」と呼ばれ、古賀野富子が亡くなるまで、観光名所として賑わった。
今日、空き家となった建物は、長年にわたる活用と度重なる改修により往年の姿がほとんど消失している。しかし、長崎居留地の忘れられた物語を今なお囁き続けている。