Story 54旧レスナー邸の風景
明治時代になると、ヨーロッパやロシア出身のユダヤ人商人たちが上海経由で長崎へ来航するようになった。彼らの多くは梅香崎や大浦川の沿岸地域といった居留地の下等地に住み、上海やその他の港町と同様に、居酒屋や仕立て屋を営んだ。しかし、長崎で繁栄の道を切り開いて居留地の発展に貢献したユダヤ人もいた。ジーグムンド・レスナーもその一人である。
レスナーは明治17年(1884)に来崎し、「S・D・レスナー商会」を設立。その後、梅香崎に移り、輸入食品、衣類やアクセサリーを販売しながら不動産などを取り扱う競売業も展開した。そのころ、彼は同僚の協力を得て、日本における最初のシナゴッグ(ユダヤ教会)を自社の商店に隣接する梅香崎11番地に建設した。好調の波に乗ったレスナーは、家族と共に南山手15番地の豪邸に居を構えた。
明治38年(1905)に新設したさらに大きな商店は、ロンドンの有名百貨店にちなんで「ホワイトリーズ・オブ・ナガサキ」と呼ばれ、人気を博した。ジーグムンド・レスナーは日露戦争後も商業活動を継続したが、第一次世界大戦が勃発すると大きな不幸に遭遇した。彼はオーストリア国籍を有していたため、敵国民と見なされ営業停止処分になった。戦後に営業再開を許されたが、大正9年(1920)に急死し、坂本国際墓地に埋葬された。享年61歳。
レスナーの死後、長崎のユダヤ人社会が急速に衰退し、悲しみにくれた妻のソフィー・レスナーは、南山手15番地の邸宅を含む長崎における全ての財産を売って上海へ移住した。