Story 57グラバー園の共同水栓
南山手・グラバー園の移築保存エリアには、古びた鉄製の給水栓が目を引く。これは、長崎に近代水道が完成した1891(明治24)年ごろに市内に設置され、太平洋戦争後に廃棄されず、グラバー園に移設された貴重な歴史遺産である。
イギリス人技師ジョン・W・ハートは1886(明治19)年に、フレデリック・リンガーの要請で長崎を訪れた。ハートは、貯水用ダムを含む水道施設用の適地を探すために周辺地域を調査し、一之瀬川上流の本河内に貯水用ダムを造るべきだという調査結果を表明した。しかし、近代水道の明らかな必要性と利益にもかかわらず、長崎区の年間予算の7倍以上の30万円と予想される莫大な総工費のため、この計画は反対意見の嵐に見舞われた。長崎近隣の88町のうち、55町の代表が抗議運動を行ったため、計画は長崎市議会に提出する前に取り下げられた。
長い政治的争いの末に、水道建設の法案がやっと成立した。鉄管、給水栓や他の機材を輸入するために希望業社を募った。県庁で行われた競争入札には日本内外の4社が参加し、競り勝ったのは、12万5千ドル(洋銀)を提示したアメリカ系のチャイナ・アンド・ジャパン・トレーディング・カンパニー(支那日本貿易商会)であった。その後、長崎居留地の大浦4番地に支店を置く同社は、グラバー園の給水栓を含む機材のすべてをイギリスから輸入した。水道工事が1891(明治24)年3月に完成し、長崎水道は横浜と函館に続く3番目の近代水道として、同年5月から給水を開始した。専用ダムを持つ水道としては日本初のものであった。