Story 59雨森病院
ウィルソン・ウォーカーの未亡人シャーロットは、1919(大正8)年に上海へ移住し、南山手12番地の自宅とそれに隣接する10番地のクリフ・ハウス・ホテルを売りに出した。この地に新しく小学校を建ててはどうかという案が長崎市当局側から浮上したこともあったが、地元住民の反対にあって実現しなかった。結局、日本人医師2名が家屋とホテルの両方を購入し、「田中・雨森共同病院」とした。
雨森医師は以前から長崎市新町で開業し、ドイツ語と英語ができ、フランス人の妻を持つ弟の田中医師は13年間のヨーロッパ留学を経て長崎へ戻っていた。田中・雨森共同病院は、長期滞在者に部屋も貸していたが、それを利用した外国人の中には、1930(昭和5)年に来崎したポーランド人のコルベ神父らがいた。彼らは「無原罪の聖母の騎士」という刊行物を出版するために、以前ホテルだった建物の中に印刷機を持ち込んだ。
翌年、本部を本河内に移して修道院を設立した。その後、ポーランドへ帰国したコルベ神父はドイツ秘密警察に逮捕され、アウシュビッツに送られ、妻子ある死刑囚の身代りを申し出て処刑された。かつてホテルであった建物は、1952(昭和27)年三上工作所の工場に改装されたが、1973(同48)年の火事によって焼失。一方、昭和50年代まで雨森病院として市民に親しまれていた旧南山手12番地の洋館は解体されることになり、寄贈を受けた長崎市が旧南山手8番地へ移築。同館は現在、南山手地区町並み保存センターとして公開されている。