Story 60南山手の誕生
長崎居留地が開設された当初、徳川幕府は外国人の居住エリアを大浦と下り松(現在の松が枝町)に限定したいと考えていたが、風通しのよい山手地区を提供してほしいという領事たちの強い要請に対して、東山手地区を始め、次第に居留地境界の拡大を認めた。しかしながら、開港から2年後の1861(文久元)年になっても、幕府は妙行寺(当時の長崎英国領事館が仮開設していた寺院)の南側の丘陵地帯、つまり現在の南山手、の提供を固く拒んでいた。
イギリス領事のジョージ・S・モリソンは、同年4月13日付の書簡で、この問題の解決に目処がついたことをイギリス政府に報告。モリソンはその数日前、長崎奉行に面会し、居留民の健康と快適な暮らしのためにスペースが必要であり、急速に拡大する外国人人口に対応するために既存の居留地があまりにも窮屈であることを訴えていた。彼が過去のように部屋の反対側ではなく、奉行と同じテーブルに座ったのは初めてであった。奉行が幕府と相談しなければならないといつものように答えると、モリソンは「暫定措置」でも良いから即座に決定してほしいと頼み込んだ。その結果、長崎奉行は居留地の境界を金刀比羅(ことひら)神社の下まで延長し、約17ヘクタールに広がる南山手1番地から35番地の区画整理を行うことに合意した。
外国人たちは早速、利用可能な区画に対する借地権にめぐって競い合った。1861(文久元)年10月、最も美しい場所で、そして松の老木がそびえ立つ南山手3番地の借地権を確保したのは、若いスコットランド人、トーマス・B・グラバーであった。