Story 76フレデリック・リンガーが嫌った編集長
英字新聞ナガサキ・プレスの編集長に抜擢された若いイギリス人ウィルモット・ルイスは、明治35年(1902年)から約2年間を長崎で過ごした。彼が長崎に来たのと同時期、フレデリック・リンガーのひとり娘リナはイギリスでの学校教育を終えて故郷へ帰ってきた。二人は、長崎の社交の場で出会って恋に落ちたが、父親のリンガーはルイスを嫌ってその交際に反旗を翻した。
父と娘の間の緊張は、リナがウィルモットと結婚したいと言い出した時に感情的な分裂へと発展。猛反対を押し切って駆け落ちした二人は、横浜に居を構えて二児の親となった。明治41年(1908年)、ウィルモットがマニラ・タイムズ紙の編集長として雇われると、一家はフィリピンへ住まいを移した。しかし、大正5年(1916年)にウィルモットとリナは別れ、リナは子供たちを連れて母が暮らす南山手14番館(現在の旧オルト住宅)に戻った。
一方、ウィルモットの博識な論説が世界中の新聞に掲載されるようになり、同9年(1920年)、タイムズ紙のワシントン特派員に任命された。アメリカの首都に移り住んだ彼は、家族を捨てて義理の父リンガーの最も暗い予想を現実のものにした。リナは夫の不倫が原因でイギリス最高裁判所に離婚申請書を提出し、4年後の昭和4年(1929年)に43歳の若さで他界。ウィルモットは離婚後、AP通信創立者の娘と再婚し、翌々年にイギリス政府によってナイトに叙任された。
「ウィルモット・H・ルイス卿」として余生を送った彼は、時折南山手に漂う楠の香りや長崎港にひびく霧笛の音を思い出すこともあったかも知れない。