Story 87ヨルダン氏の墓碑
デンマークの首都コペンハーゲンで生まれたオーエ・ルートヴィヒ・ヨルダンは、1882(明治15)年に大北電信会社の香港支局に技師として就任し、恋人のカロリーヌをデンマークから招き結婚した。1891(明治24)年、彼はアモイや上海を経て長崎への転属になり、妻と幼い息子3人を連れて来崎。一家は、梅香崎2番地にあった大北電信会社長崎支局公舎の2階を経て、南山手8番地および4番地の洋館に住まいを移した。
バイオリンとピアノの熟練した奏者であったヨルダン夫妻は、居留地で開催されるパーティーや舞踏会で演奏するだけでなく、楽器や歌の才能を持つ居留者たちと日本人生徒を集めてその組織化を推進し、長崎交響楽団の前身である「ナガサキ・ミュージック・ソサエティ」(長崎音楽協会)を創設した。
電気工学の専門家だったオーエ・ヨルダンは、海底ケーブルの架設など、電気通信技術の開発者として知られていた。日本政府は日本の技術発展に対する彼の功績を称え、勲六等瑞宝章(1902年)、勲四等瑞宝章(1908年)、そして勲三等旭日重光章(1918年)を授与している。
最後の勲章を授かった頃、ヨルダン氏は病床に臥し、長い闘病の末1918(大正7)年7月13日に帰らぬ人となった。享年58。南山手4番地の自宅で執り行われた葬儀には、長崎県知事や長崎市長など、数多い友人たちが参列した。
カロリーヌ・ヨルダンは、出費を惜しまず、デンマークから大きな自然石の墓碑を取り寄せて坂本国際墓地に設置。この墓碑は今もなお同墓地にたたずみ、ヨルダン夫人の想いをささやき続けている。