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Story 93中野ワカを巡って

 1899(明治32)年に倉場富三郎と結婚した中野ワカは、横浜のイギリス人商人ジェームズ・ウォルターと日本人女性中野エイの次女であった。ウォルターは若くして横浜の商社に入社し、40年余にわたって生糸貿易に従事し業績拡大に貢献していた。日本語に長けていた彼は、日本人から「ワタリさん」と呼ばれて親しまれたという。

 ウォルターと中野エイとの間には、1875(明治8)年に誕生したワカを含む3人の子供はいたが、1887(明治20)年2月、彼は家族を捨ててアメリカ人女性ハリエット・ウィンと結婚した。これを機に、ウォルターはまだ12歳だったワカの面倒を見て欲しいと友人のトーマス・グラバーに依頼した。その後、ワカは、東京市芝公園にあったグラバーの屋敷から東洋英和女学校に通い、やがてトーマス・グラバーの妻・淡路屋ツルの正式な養女となった。

 今まで、中野エイの死後にジェームズ・ウォルターが再婚したとされてきたが、倉場富三郎が父親に当てた1909(明治42)年の手紙から、ウォルターが同年2月に亡くなった後もエイが生きていたことが最近判明した。手紙によると、エイの長男(ワカの兄)中野倉三郎はウォルターの未亡人にお金を要求したので、倉場富三郎が代わりにエイに月15円の生活費を送金する約束をした。中野エイのその後の消息は不明である。

 似通った境遇を持っていた富三郎とワカは、同じ1909(明治42)年に南山手3番地の一本松邸(現在の旧グラバー住宅)に住むようになった。子宝には恵まれなかっが、死が二人を分かつまで寄り添い続けるのであった。

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