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Story 94ブラックバーン家の悲劇

 江戸時代に出島へ派遣された「蘭館医」は歴史書によく記憶されているが、明治時代に来崎して地域医療の発展に貢献した外国人医師たちはほとんど忘れられている。 その一人は、イギリス人の医師、ハーバート・ブラックバーンである。

 香港で活動していたブラックバーン医師は、1892(明治25)年6月に来崎し、長崎医学校の講師に就任し、妻のエミリーと共に南山手8番地の住宅に入居した。南山手8番地は、大浦天主堂の正面から南に伸びる大きな三角形の区画であり、長崎港を見下ろす数軒の洋風住宅がたたずんでいた。ブラックバーン夫妻の長女エニッドと長男のスタンレーは、それぞれ1893(明治26)年1月と翌年9月に南山手の家で産声をあげた。

 1894(明治27)年3月、ブラックバーン医師は、イギリス人であるにもかかわらず、駐長崎アメリカ副領事に任命され、ウィリアム・アバクロンビー領事が長崎を離れている間、南山手14番地(現在の旧オルト住宅)の領事館で業務にあたった。ブラックバーン一家は長崎で幸せな日々を送っていたが、妻のエミリーは1895(明治28)年に急病を患い、同年3月3日、南山手の自宅で夫と2人の幼い子供たちが見守る中で息を引き取った。33歳の若さだった。その後、多くの友人たちが葬儀に参列し、遺体は坂本国際墓地に埋葬された。

 同年10月、ブラックバーン医師は子供たちと一緒にロンドン行きの蒸気船に乗って帰国した。

 2019(令和元)年4月、子孫のポール・ムンロー・フォーレさん夫妻は、124年ぶりにエミリー・ブラックバーンの墓前に祈りを捧げた。

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