Story 7ロシア語新聞「ヴォーリヤ」
日露戦争中に閉館されていた南山手5番地のロシア領事館が、戦後復活し、長崎を訪れるロシア人も再び急増した。「東洋日の出新聞」によると、明治39年(1906)1月から9月の間、月平均328人のロシア人が長崎税関の波止場を通過した。その多くは避暑地の雲仙へ行く裕福なロシア人たちだが、南山手に居を構える人も少なくなかった。同年、ロシア正教会の日本人神父アントニイ高井が長崎に派遣され、この街における活動を再開した。教会堂は南山手の旧ロシア海軍病院の敷地内に開設されていたが、大正6年(1917)に首司祭アントニイ高井神父名義になり、長崎正教会の聖堂が建立され、太平洋戦争前夜まで存続した。
日露戦争後に長崎に住み着いたロシア人の一人に、医師で政治活動家のニコライ・ラッセル(Nicholas Russel)がいる。「在長崎露国革命党首領」として同僚に慕われていた彼は、明治39年(1906)4月から日本抑留のロシア人捕虜やそのほかのロシア人に革命を宣伝するために「ヴォーリャ」(Воля)と題するロシア語新聞を南山手12番地で発行した。同新聞は翌年春まで発行を続け、その後に起きたロシア革命の一翼を担った。ラッセルは同43年(1910)に長崎を離れてフィリピンに活動の場を移したが、その後も度々長崎を訪れて親交を深めた。その後、彼は、日本人女性大原ナツノとの間に生まれた長女フローラと共に中国の天津に移住し、昭和5年(1930)、波乱万丈の生涯を閉じた。