Story 89三浦環と旧オルト住宅
三浦環は、夫のイギリス留学に同行した際に指揮者ヘンリー・ウッドに出会い、ソプラノ歌手としての才能が認められた。1915(大正4)年、ジャコモ・プッチーニ作曲のオペラ『マダム・バタフライ』で蝶々役に抜擢され、以降太平洋戦争前に引退するまで2000回もこの役を演じ世界的な名声を博した。
1922(大正11)年6月、医者の夫と離婚していた三浦環は、ヨーロッパにおける長期公演を終えて一時掃国し、恋人と噂されたイタリア人ピアニストのルド・フランケッティらとオペラ『マダム・バタフライ』の舞台である長崎を訪れた。来崎の目的はリサイタルを開くためであったが、彼女はオペラ関連の場所も見たいと希望し、長崎の郷土史家 武藤長蔵に案内され南山手14番館(現・旧オルト住宅)を訪問した。オペラの一場面となる長崎アメリカ領事館が昔ここに置かれていたからである。
小説『マダム・バタフライ』の原作者であるジョン・ルーサー・ロングの姉ジェニー・コレル夫人は、たまたま同時期に長崎に来ていた。奇遇が重なり息子のI・C・コレル氏は、オペラに登場する役柄でもあるアメリカ領事として長崎に赴任していた。一行は、南山手14番館に足を運び、同邸宅の前で左の写真を撮った。(左から)武藤長蔵、フランケッティ、三浦環、I・C・コレル夫人(後ろの女性)、ジェニー・コレル夫人である。
長崎来航から3年後、アルド・フランケッティは、『ナミコさん』と題する自作の悲劇オペラをシカゴで発表し、三浦環が主役を務めるのであった。